第28話 柚子湯の夜
冬至の朝。
五時に起きて、二人で薪を割った。新しい釜に、火を入れた。
それから、浴場で、柚子の準備をした。
三百個の柚子を、ひとつずつ洗う。大きな網の袋に、いくつかに分けて入れる。そのまま湯に浮かべると、お客さんが持って帰ってしまったり、皮がむけて排水口が詰まったりするのだと、祖母の日誌に書いてあった。
『柚子湯の注意。網に入れること。子どもが柚子でキャッチボールをするので、見張ること』
午後二時。湯船に、柚子の袋を浮かべた。
浴場じゅうが、黄色く、甘酸っぱいにおいで満たされた。
湯の上に、ぷかぷかと揺れる柚子。その上に、金色の満月。
番台の上には、祖母の写真を置いた。少し怒ったような顔の、あの写真。その前に、柚子をひとつ。
「……おばあちゃん。柚子湯だよ」
写真の祖母は、やっぱり、「遅いよ」と言った気がした。
開店の少し前、一台のタクシーが、月見湯の前に止まった。
降りてきたのは、車椅子の、痩せたおじいさんだった。老人ホームの職員さんらしい女の人が、後ろから押している。
「早乙女さん」
蒼くんが、釜場から飛び出してきた。
「なんで、ここに」
「冬至だろうが」
早乙女さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「ハルさんの柚子湯だ。わしが来なくて、誰が来る」
早乙女さんを、男湯の洗い場まで案内した。車椅子のまま、湯船の前で、止まる。
早乙女さんは、壁を見上げた。
自分が四十年前に描いた場所に、弟子が描いた、新しい月。
長いこと、黙って見上げていた。
それから、震える指で、壁の右上を指した。
「……あそこ。空のむらが、残ってる」
「……すみません」
蒼くんが、頭を下げた。
早乙女さんは、指を下ろした。
「いい月だ」
短く、言った。
蒼くんの肩が、小さく揺れた。
早乙女さんは、それから、私のほうを見た。
「あんたが、ハルさんの孫か」
「はい。三森千夏です」
「似てるな。気の強そうなとこが」
早乙女さんは、ふっと笑った。蒼くんと、少しだけ似た笑い方だった。
「手紙は、読んだか」
「今夜、読みます」
「そうか」
早乙女さんは、それだけ言うと、職員さんに「帰るぞ」と言った。
帰りぎわ、のれんの前で、もう一度だけ振り向いた。
「蒼。……帰る場所、できたみてえだな」
蒼くんは、答えなかった。
でも、その耳が、真っ赤だった。
午後三時半。
のれんを掛けた。
行列が、商店街の角を曲がって、その先まで続いていた。
「おかえりなさい!」
その日は、戦争だった。十五夜の夜より、もっと。
タツさんが、いつものように一番風呂に入った。湯から上がってきて、番台の前で、ひとこと。
「……新しい釜の湯も、悪かねえな」
キヨさんが来た。ルミ子さんが来た。商店街の八百屋のおかみさんも、魚屋のご主人も。
夕方、銀髪の、眉間にしわのある男の人が、のれんをくぐってきた。
「……部長さん」
東和の、あの部長さんだった。
「約束でしたので」
部長さんは、少し照れくさそうに、湯銭を番台に置いた。
「おかえりなさい」
私が言うと、部長さんは、一瞬きょとんとして、それから、くしゃっと顔をゆるめた。
「……ただいま」
夜の八時ごろ、恵が来た。なぜか、安田さんと一緒だった。
「そこで会っただけよ」
恵は、聞いてもいないのに言った。
「釜の話を聞いてたの。ボイラーって、奥が深いのよ」
「……ふうん」
安田さんは、何も言わずに、頭をかいていた。
沙耶さんは、番台の横で、ひっきりなしにタオルを売っていた。ひなたちゃんは、「ひなたのせき」で、お客さん一人ひとりに「おかえり!」と言っていた。
その夜の客は、二百六十三人だった。
夜の九時。
いちばん混んでいる時間。男湯も、女湯も、湯船に人があふれていた。
私は、番台の上に、立ち上がった。
「皆さん」
声を張った。
両側の脱衣所と、ガラス戸の向こうの浴場に、届くように。
「少しだけ、聞いてください」
ざわめきが、少しずつ静まっていった。湯船の中の人たちが、こちらを振り向いた。
「月見湯は、祖母が決めていたとおり、今日、冬至で、しまいにする予定でした」
しん、とした。
「祖母が病院で書いた日誌に、そう書いてありました。最後は柚子湯にする、って」
番台の上の、祖母の写真を見た。
「……でも、続けます」
声が、震えなかった。
「新しい釜で、これからも。明日も、あさっても、来年も。のれんは、毎日、午後三時半に上がります」
息を、吸った。
「だから、皆さんの『ただいま』を、これからも、聞かせてください」
一瞬の、静けさ。
それから、男湯から、拍手が起きた。
女湯からも。
湯船の中で、裸の人たちが、ぱちぱちと手を叩いていた。湯気の中で、柚子がぷかぷか揺れていた。
「当たり前だよ!」
女湯から、キヨさんの声が飛んだ。
「ハルちゃんの湯は、あたしが死ぬまで、なくさせないからね!」
「ばあさん、それ、あと何年だ!」
男湯から、タツさんが叫んで、両方の浴場が、どっと笑いに包まれた。
番台の上で、私も笑った。笑いながら、少しだけ泣いた。
釜場の入り口に、蒼くんが立っていた。煤で黒くなった顔で、こちらを見ていた。
目が合うと、蒼くんは、小さくうなずいた。
夜中の、十二時半。
掃除を終えて、しまい湯に入った。
柚子は、湯の中に、少しだけ残しておいた。網の袋が、ぷかぷかと浮いている。甘酸っぱいにおい。
女湯の湯船のふちに、祖母の封筒を置いた。
壁の向こうでも、きっと、同じようにしている。
「……開けようか」
「はい」
封を、切った。
便箋が、二枚。病院で書いたのだろう、少し震えた、でも、日誌の最後のページよりは、ずっとしっかりした字だった。
「声に出して、読んでもいい?」
「……俺のも、読みます」
私は、湯の中で、便箋を広げた。
『千夏へ
この手紙を読んでるってことは、あたしはもう、この世にいないんだろうね。それで、あんたは、月見湯の湯に浸かってるんだろう。早乙女さんがちゃんと渡してくれたなら、たぶん、そうだ。
まず、言っとくよ。
あたしの死に目に間に合わなくても、気に病むんじゃないよ。あんたが来られなかったのは、あんたのせいじゃない。あたしは、ちゃんとわかってた。
あんたの電話の声が、だんだん細くなっていくのを、あたしは番台で聞いてたよ。番台はね、見ないふりして全部見る場所だ。電話の向こうだって、ちゃんと見えるのさ。
帰っておいで、って、何べんも言おうと思った。でも、言えなかった。あんたが自分で決めなきゃ意味がない、なんて、かっこいいことを思ってさ。
いや、違うね。
言って、断られるのが、怖かったんだ。年寄りの、意気地なしさ。ごめんよ。
月見湯は、しまうのも続けるのも、あんたの好きにしな。日誌には冬至でしまうって書いたけど、あれは、あたしがくたびれたってだけの話だ。あんたは、あんたの湯を沸かせばいい。
ただね、ひとつだけ、覚えときな。
あんたが帰ってくる場所は、ここにあるよ。のれんは、いつだって上がってる。
おかえり、千夏。
ハル』
最後まで、声に出して読めなかった。
途中から、何度も、声が詰まった。
おかえり、千夏。
便箋の上に、ぽたぽたと、しずくが落ちた。湯気のしずくか、涙か、わからなかった。
おばあちゃん。
ただいま。
ただいま、おばあちゃん。
壁の向こうは、静かだった。ずっと、黙って聞いていてくれた。
しばらくして、紙のこすれる音がした。
「……読みます」
蒼くんの声が、少しだけ、かすれていた。
『蒼ちゃんへ
あんたは、風みたいな子だね。九つのときから、そうだった。一か所にじっとしていられない。いつも、どこかへ行っちまいそうな目をしてる。
どこへ行ってもいいよ。日本中の壁を、描いといで。あんたの絵は、毎日、だれかの湯の時間を、ちょっとだけしあわせにする。それは、立派な仕事だ。
ただね、帰る場所を、ひとつ持ちな。
あんたのおっかさんのことは、聞いてるよ。待つのが、怖いんだろう。待たせるのも。
でもね、蒼ちゃん。待つのは、悪いもんじゃないよ。
あたしは三十年、源さんのいない壁の向こうに、毎晩、湯加減はどうだいって、声をかけてたよ。返事なんか、ありゃしない。それでも、言ってた。それで、ちゃんと、しあわせだった。
待つってのはね、相手のことを思いながら、自分の湯を沸かすことさ。
それから、もうひとつ。
千夏の色鉛筆、まだ持ってるんだろう。あたしは、知ってるよ。
あの子が帰ってきたら、言っておやり。あんたが、何を描いてきたか。
ハル』
壁の向こうで、蒼くんが、読み終えた。
最後のほうは、ほとんど、声になっていなかった。
湯の音だけが、していた。
おばあちゃんは、全部、知っていたのだ。
あの夏のことも。色鉛筆のことも。蒼くんが、何のために、壁を描いてきたのかも。
全部、見ないふりして、見ていたのだ。
「……ハルさん」
壁の向こうで、蒼くんが、つぶやいた。
「ずるいです」
私は、湯の中で、少しだけ笑った。
本当に、ずるい。
こんな手紙を、遺していくなんて。
――待つってのはね、相手のことを思いながら、自分の湯を沸かすことさ。
胸の奥で、ずっと絡まっていた最後の糸が、するりと、ほどけた。
「蒼くん」
「……はい」
私は、壁の月を見上げた。
半分の、金色の月。
「行ってらっしゃい、って、言いたい」
壁の向こうが、しんとした。
「それで、おかえり、って言いたい」
湯の中で、手を、ぎゅっと握った。
ルミ子さん。タツさん。おばあちゃん。
言わない後悔は、もう、しない。
「帰ってきて」
声が、まっすぐに出た。
「ここに。……私の、ところに」
長い、長い沈黙があった。
柚子の袋が、ぷかぷかと揺れていた。
やがて、壁の向こうから、震える声がした。
「……待っててくれますか」
あの人が、初めて口にした言葉だった。
ずっと、怖くて、言えなかった言葉。
私は、首を横に振った。壁の向こうには見えないけれど。
「待たない」
「……え」
「待たないよ」
私は、笑った。
「私は私で、毎日、のれんを上げてる。薪を割って、湯を沸かして、番台で『おかえり』って言ってる。……蒼くんがいても、いなくても」
壁の向こうで、息を呑む音がした。
「だから、そこに、帰ってきて。いつでもいい。一か月後でも、一年後でも」
鍵の開いた、帰る場所。
「のれんは、開いてるから」
壁の向こうで、ざばっと、湯が鳴った。
それから、聞こえてきたのは。
笑い声だった。
泣きながら、笑っている声。
「……はい」
蒼くんは、言った。
「帰ってきます。……ここに。千夏さんの、ところに」
湯気が、壁を越えて、行ったり来たりしていた。
「千夏さん」
「うん」
「そっち、行っていいですか」
私は、笑って、湯から立ち上がった。
「……番台で」
番台の電気スタンドだけが、ぼんやりと灯っていた。
今度は、私は、番台に上らなかった。
女湯の脱衣所の側に、立った。
番台をはさんで、男湯の脱衣所の側に、蒼くんが立った。
二人とも、髪から、柚子のにおいのするしずくが垂れていた。
番台の上の、祖母の写真が、二人のあいだで、こちらを見ていた。
蒼くんが、身を乗り出した。
私も、身を乗り出した。
番台の上で。
男湯と、女湯の、ちょうど真ん中で。
唇が、重なった。
柚子の、甘酸っぱい味がした。
ガラス戸の向こう。湯気の向こう。
壁の上の月が、見えた。
男湯から見える半分と、女湯から見える半分。その、ちょうど真ん中で。
二人のあいだで、月は、まんまるだった。
唇が離れて、額と額をくっつけた。
蒼くんが、小さく笑った。
「……千夏さん」
「うん」
「おかえりの練習、しておいてください」
私は、彼の額に、自分の額を、こつんと当て返した。
「毎日、してるよ」




