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第29話 いってらっしゃい

 大晦日の月見湯は、夜中の一時まで開けている。


 祖母の代からの決まりだ。一年の垢を落として、きれいな体で新しい年を迎える。下町の人たちは、それを「年越し湯」と呼んでいた。


 夜の十一時を過ぎても、のれんをくぐる人が絶えなかった。


 十一時五十九分。


 天窓の向こうから、近くのお寺の、除夜の鐘が聞こえてきた。


 ごおん。


 湯船の中のお客さんたちが、壁の時計を見上げて、数えはじめた。


「五、四、三、二、一――」


「あけまして、おめでとう!」


 男湯から、声が上がった。


「おめでとう!」


 女湯から、返事が飛んだ。


「今年もよろしく!」


「こちらこそー!」


 壁を越えて、湯気といっしょに、新年のあいさつが行ったり来たりした。知らない人同士が、顔も見えないまま、壁ごしに、おめでとうを言い合っていた。


 番台の上で、私は、両側の脱衣所に頭を下げた。


「あけまして、おめでとうございます」


 釜場の入り口で、蒼くんが、煤のついた顔で、小さく頭を下げ返した。




 元日は、朝湯だった。


 朝の六時に、のれんを上げる。これも、祖母の代からの決まり。


 五時半に表へ出ると、縁台に、もうタツさんが座っていた。紋付き袴のような、そうでもないような、えらく立派な羽織を着ていた。


「正月だからな」


 それだけ言って、タツさんは、新年の一番風呂に入っていった。


 キヨさんは、ひなたちゃんに、ぽち袋を渡していた。


「ひなたちゃん、お年玉だよ」


「わあ! キヨばあちゃん、ありがとう!」


 ひなたちゃんは、赤い着物を着ていた。沙耶さんが、古着屋さんで見つけてきたのだという。くるりと回ってみせて、番台の私に手を振った。


「ちなつちゃん、あけましておめでとう! あおちゃんは?」


「釜場だよ」


 ひなたちゃんは、釜場のほうへ駆けていった。しばらくして、「あおちゃん、あけましておめでとう!」という声と、それから、「……おめでとう」という低い声が聞こえてきた。




 一月三日の夜。


 スナック「月うさぎ」で、送別会が開かれた。


 言い出したのは、ルミ子さんだった。カウンター七席の小さな店に、十人以上がぎゅうぎゅうに詰めこまれた。


 タツさん。キヨさん。沙耶さんと、ひなたちゃん。恵。なぜか、また安田さん。ルミ子さん。私。


 そして、主役の、蒼くん。


 カウンターのいちばん端の席で、居心地悪そうに、ウーロン茶を飲んでいた。


「蒼」


 タツさんが、蒼くんの前に、どんと一升瓶を置いた。


「餞別だ」


「……ありがとうございます」


「それから」


 タツさんは、蒼くんの肩を、がしっとつかんだ。


「帰ってこなかったら、ぶっ飛ばすからな」


「……はい」


「八十二の鳶をなめんなよ。日本中、どこへだって追っかけてくぞ」


 店じゅうが、笑った。蒼くんも、少しだけ笑った。


 ルミ子さんは、小さなお守りを渡していた。「旅の安全。あと、浮気防止」。


 恵は、「北海道の弁護士会に知り合いがいるから、何かあったら連絡しなさい」と、名刺の束を渡していた。何があると思っているのだろう。


 安田さんは、何も言わずに、蒼くんの背中をぽんと叩いた。それから、恵の隣の席に戻って、また何か、ぼそぼそと話しはじめた。……釜の話、だろうか。


 ひなたちゃんは、一枚の画用紙を、蒼くんに差し出した。


 青いクレヨンで描いた、まんまるの月。その下に、たどたどしい字。


 『あおちゃん いってらっしゃい』


 蒼くんは、その絵を、長いこと見つめていた。


 それから、ひなたちゃんの頭を、大きな手で、くしゃくしゃとなでた。


「……ありがとな」


「あおちゃん、いつかえってくるの?」


 ひなたちゃんが、聞いた。


 店の中が、すっと静かになった。


 みんなが、蒼くんを見た。


 蒼くんは、ウーロン茶のグラスを置いた。そして、カウンターの端から、店じゅうを見回した。


「毎月、十五日」


 はっきりと、言った。


「十五日は、帰ってきます。ハルさんの、月命日なんで」


 それから、私のほうを見た。


「……しまい湯に、入りに」


 一瞬、店が静まりかえって。


 それから、わっと、歓声が上がった。


 タツさんが、カウンターをばんばん叩いた。キヨさんが「よく言った!」と叫んだ。ルミ子さんが、指笛を鳴らした。


 私は、カウンターの反対側の端で、グラスを握りしめていた。


 十五日。


 キャラバンの担当の人に、そう頼んだのだという。毎月、十五日だけは、どこにいても東京に戻らせてほしい、と。


 あとで、そう聞いた。


 知らなかった。


 ひとことも、言っていなかったくせに。


「蒼ちゃん」


 歓声がおさまると、キヨさんが、カウンターの端まで来て、蒼くんの隣に座った。


「あんたに、ひとつだけ言っとくよ」


「はい」


 キヨさんは、真剣な顔で、蒼くんの目をのぞきこんだ。


「毎月十五日は、しっかり、お勤めしな」


 私は、口に含んでいた水割りを、吹きそうになった。


「キヨさん!」


「何だい。大事なことだよ。千夏ちゃんは、三十五なんだからね。食べごろなんだから」


「三十六になるんです、来月で!」


「なおさらさ」


 ルミ子さんと恵が、カウンターに突っ伏して笑っていた。蒼くんは、真顔のまま、耳だけが真っ赤だった。




 一月五日。


 朝の五時。


 いつものように、釜場で薪を割った。


 二人で。かこん、かこん。


 今日で、しばらく、この音を二人で聞くことはない。


 六時。台所に上がると、蒼くんが、フライパンの前に立っていた。


「座っててください」


 言われるまま、ちゃぶ台の前に座った。


 しばらくして、皿が運ばれてきた。


 ご飯。お味噌汁。それから、卵焼き。


 黄色かった。


 焦げていなかった。きれいな、ふっくらとした、黄色い卵焼き。


 箸でつまんで、口に入れる。


 甘かった。


 砂糖がたっぷりの、ほとんどお菓子みたいな卵焼き。


 祖母の味だった。


「……どうですか」


 蒼くんが、向かいで、私の顔をじっと見ていた。


 七月の終わり。祖母の台所で、私の卵焼きを食べて、この人は、なんと言ったんだっけ。


 私は、卵焼きを飲みこんで、言った。


「……うまい」


 蒼くんの目が、少しだけ、見開かれた。


 それから、目尻が、くしゃっとなった。


「よかった」




 七時。


 軽バンは、月見湯の前に止まっていた。荷台には、ペンキの缶と、ローラーと、刷毛と、脚立と、寝袋。それから、ひなたちゃんの絵と、タツさんの一升瓶。


 私は、のれんを手に、表に出た。


「まだ、七時だけど」


「今日だけ、特別」


 背伸びをして、のれんを掛けた。藍色ののれん。白い「ゆ」の字と、小さなうさぎ。


 冬の朝の風に、のれんが、ふわりと揺れた。


 蒼くんが、軽バンのドアの前に立っていた。


 ダウンジャケットのポケットに、両手を突っこんで。白い息を吐いて。


「千夏さん」


「うん」


「行ってきます」


 私は、のれんの下で、笑った。


 泣かないと、決めていた。


「いってらっしゃい」


 蒼くんは、少しだけ笑って、軽バンに乗りこんだ。


 エンジンがかかる。少しくたびれた、軽い音。


 窓が開いて、蒼くんが、片手を上げた。


 私も、手を振った。


 軽バンは、ゆっくりと商店街を走っていった。八百屋の前を過ぎて、魚屋の前を過ぎて。


 角で、ウインカーが点滅した。


 曲がる。


 見えなくなった。


 私は、のれんの下で、しばらく手を振ったまま立っていた。


 それから、手を下ろした。


 少しだけ、泣いた。


 本当に、少しだけ。


 泣き終わって、袖で顔をぬぐって、私は、月見湯の中に戻った。


 釜場へ行く。


 焚き口を開けて、薪をくべる。マッチを擦る。


 一人で。


 火が、ぱちぱちと、薪をなめた。


 大丈夫。


 私は、私の湯を沸かす。


 その日の夜、月見湯日誌、四十九に、こう書いた。


 『一月五日 晴れ 湯温四十三度 客百四十一人 蒼くん、出発。いってらっしゃい』




 一月十五日。


 祖母の、月命日。


 夜の十一時に、のれんを下ろした。沙耶さんとひなたちゃんを見送って、一人で掃除をした。


 十日間、毎晩、一人でしまい湯に入った。


 壁の向こうは、静かだった。換気扇の音だけ。


 でも、それは、七月のころの静けさとは、違っていた。


 壁の向こうに、誰かがいた場所の、静けさだった。


 夜中の十二時半。


 女湯の湯に、肩まで浸かった。


 壁の月を見上げる。半分の、金色の月。


 北海道は、寒いだろうか。雪の中で、壁を描いているんだろうか。


 今日は、十五日だけど。


 まだ、二週目だ。きっと、忙しい。北海道から東京まで、そう簡単に――。


 がらり。


 男湯のほうで、戸が開く音がした。


 私は、湯の中で、固まった。


 ぺた、ぺた、と、濡れた足音。


 桶で、湯をくむ音。ざばあ、と、湯をかぶる音。


 それから、ちゃぷん、と、湯に浸かる音。


 ふう、という、長い、長い息。


 私は、両手で口を押さえた。


 しばらく、湯の音だけがしていた。


 それから。


「……湯加減、どうですか」


 壁の向こうから、低い声が降ってきた。

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