第30話 しまい湯は、壁ごしに
『二月十五日 雪 定休日。月命日なので、釜に火を入れた。夜中の一時、蒼くん、帰ってくる。函館から、夜行で。しまい湯のあと、玄関で寝てた』
『二月二十日 くもり 客百三十人 三十六歳の誕生日。夜中の十二時ちょうどに、電話。「誕生日、おめでとうございます」。青森の、どこかの銭湯の釜場からだって。去年の今日、私はおばあちゃんに電話をしなかった。今年は、電話が鳴った。それだけで、泣いた』
毎月、絵はがきが届いた。
蒼くんが、行った先の町から。表には、その町の銭湯の写真。裏には、色鉛筆で描いた、小さな月。
『函館の月は、少し青いです』
『盛岡の月は、山の上から出ます』
『仙台。雪の上に、月の道ができていました』
一枚ずつ、番台の横の柱に貼っていった。ひなたちゃんの、灰色の月の絵の隣に。
お客さんたちは、のれんをくぐるたびに、柱を見上げていく。
「お、今月は新潟か」
「蒼ちゃん、元気そうだねえ」
柱の絵はがきは、月にひとつずつ、増えていった。
『三月二日 晴れ 客百二十八人 耐震の工事、終わる。沙耶さん、正社員に。ひなたちゃん、保育園卒園。卒園式のあと、袴のまま一番風呂に入りたいと言って、タツさんに譲ってもらっていた』
『三月十一日 くもり 客百十人 地方の消印の手紙が一通。久我さんから。「すまなかった」とだけ書いてあった。少し考えて、釜の焚きつけにした。よく燃えた』
四月十五日。祖母の、一周忌。
月見湯の脱衣所で、ささやかな集まりをした。
お坊さんを呼ぶほどのことはしなかった。番台の上に祖母の写真を置いて、その前に、お線香と、柚子のジャムと、キヨさんが持ってきた大福を供えた。
常連さんたちが、ひとりずつ、写真の前で手を合わせていった。
最後に、タツさんが、写真の前に立った。
羽織を着ていた。元日の、あの立派な羽織だった。
タツさんは、長いこと、黙って写真を見ていた。
それから、咳ばらいをひとつした。
「……ハルさん」
脱衣所が、しんとした。
「惚れてたよ。四十年」
誰も、何も言わなかった。
キヨさんが、そっと目頭を押さえた。ルミ子さんが、ハンカチを出した。
タツさんは、写真に向かって、深々と頭を下げた。
顔を上げたとき、タツさんは、照れくさそうに、鼻をこすった。
「……言っちまった。八十三にもなって」
「遅いよ、ばかだねえ」
キヨさんが、泣き笑いの顔で言った。
写真の祖母は、少し怒ったような顔のまま、でも、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
その夜の十五日は、蒼くんも、帰ってきていた。
しまい湯で、壁ごしに、タツさんのことを話した。
「言えて、よかったですね」
「うん」
「……俺も、言えて、よかったです」
「何を?」
「待っててくれますか、って」
壁の向こうで、ちゃぷん、と湯が鳴った。
「待たない、って言われましたけど」
私は、湯の中で、笑った。
『五月五日 晴れ 客二百二人 菖蒲湯。ひなたちゃん、小学一年生。ランドセルのまま番台に来て、「ただいま」』
『七月十五日 晴れ 客百二十四人 一年前の今日、湯船に裸の男がいた。今日も、いた』
『八月下旬 晴れ 夏祭り。ルミ子さんに、また浴衣を着せてもらう。今年は、蒼くんは石川の能登。キヨさん、タツさん、沙耶さんとひなたちゃんと、金魚すくい。恵と安田さんが、浴衣で並んで歩いてきた。何も聞かないことにした』
『九月の十五夜 晴れ 客二百三十八人 壁の月、一周年。月見団子、三百個。東和の部長さん、すっかり常連。キヨさんに「塩の人」と呼ばれている』
季節が、ひとつずつ、めぐっていった。
私は、毎朝、薪を割った。釜に火を入れた。のれんを上げて、番台に座って、「おかえり」と言った。夜には、しまい湯に入った。
壁の向こうは、ほとんどの夜、静かだった。
でも、毎月十五日だけは、湯の音がした。
夜中の二時に帰ってくる月もあった。顔じゅう日焼けして帰ってくる月もあった。北海道の雪や、九州の桜や、四国の海の話を、壁ごしに、たくさん聞いた。
待っていた、とは思わない。
私は、私の湯を沸かしていた。
そこに、ときどき、帰ってくる人がいた。
それだけのことだった。
それが、とても、しあわせだった。
そして、また、冬至が来た。
十二月の、二度目の柚子湯。
千葉の農家さんから、今年は、ちゃんと代金を払った柚子が届いた。三百五十個。去年より、五十個多く頼んだ。
キャラバンは、十二月十八日、沖縄の銭湯で、四十七枚目の壁を描いて終わったと聞いていた。
でも、そのあと、連絡はなかった。
電話も、メッセージも。絵はがきも。
冬至には帰ります、とだけ、先月の十五日に、壁ごしに聞いていた。
午後三時半。のれんを上げた。
その日も、戦争だった。
夜の九時。いちばん混んでいる時間。
番台で湯銭を受け取りながら、私は、何度も、のれんのほうを見ていた。
見ないふりして。
でも、全部見ていた。
のれんが、揺れた。
大きな人が、のれんをくぐってきた。
身をかがめて。頭をぶつけないように。
日に焼けた顔。少し伸びた黒い髪。肩に、大きなダッフルバッグをかけていた。軽バンの荷台の全部を、詰めこんできたみたいな、大きなバッグ。
その人は、番台の前に立って、少しだけ、照れくさそうに笑った。
「……ただいま」
番台の上で、私は、一年分の練習の成果を、出した。
「おかえり」
その夜、男湯でも女湯でも、ちょっとした騒ぎになった。
「遅えぞ、蒼!」
男湯からタツさんが叫んで、女湯からキヨさんが「お勤め、ごくろうさん!」と叫んで、ルミ子さんが指笛を鳴らして、ひなたちゃんが「あおちゃん!」と番台から飛び下りた。
蒼くんは、ひなたちゃんを片腕で抱き上げたまま、番台の私に向かって、言った。
「月見湯を、拠点にします」
脱衣所が、静かになった。
「仕事で、日本中に出ることはあります。でも、ここに帰ってきます。毎回」
それから、肩のダッフルバッグを、ぽんと叩いた。
「荷物、全部持ってきました」
「全部?」
「歯ブラシと、着替えと、道具と。……全部です」
七年間、歯ブラシと着替えしか置いていなかった人が。
全部、持ってきた。
男湯からも女湯からも、拍手が起きた。
閉店後。
掃除を終えて、湯を張り直した浴場で、蒼くんが言った。
「一枚だけ、描かせてください」
小さなペンキの缶と、細い刷毛を一本、持っていた。
女湯の側の壁。
岬の下の、小さな砂浜。月を見上げて、青いものを持った、小さな女の子。
蒼くんは、湯船のふちに上がって、その女の子の隣に、刷毛を当てた。
十分もかからなかった。
刷毛を下ろして、蒼くんは、一歩下がった。
女の子の隣に、男の子がいた。
親指の先くらいの、小さな、細い男の子。女の子と並んで、砂浜に立って、同じ月を見上げている。
その手に、短い、青い色鉛筆を持っていた。
「……二十四年、かかりました」
蒼くんが、言った。
私は、何も言えなかった。
ただ、その小さな二人を、見上げていた。
夜中の、十二時半。
しまい湯。
柚子の浮かぶ女湯に、肩まで浸かった。
壁の向こうで、ちゃぷん、と湯が鳴った。
ざばあ、と湯をかぶる音。ふう、という長い息。
一年前と、同じ音。
七月十五日から数えて、一年と五か月。何百回も聞いた、壁の向こうの、湯の音。
「千夏さん」
「うん」
「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「番台って」
少し、間があった。
「二人で、座れますか」
私は、首をかしげた。
「狭いよ。おばあちゃん一人で、ちょうどいっぱい」
「……そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
壁の向こうで、湯が、ばしゃっと鳴った。たぶん、湯に沈んだのだと思う。
私は、湯の中で、笑った。
しばらくして、壁の向こうから、ぶくぶくと泡の音がして、それから、ざばっと、浮き上がる音がした。
「……千夏さん」
さっきより、少しだけ、改まった声だった。
「結婚してください」
柚子の袋が、ぷかぷかと揺れた。
「名字は、三森でも、葛城でも、どっちでもいいです」
壁の向こうの声は、静かで、まっすぐだった。
「俺が、三森になってもいい。……月見湯の、三森に」
月見湯の、三森。
祖母の名字。祖父の名字。私の名字。
この人が、それを、一緒に背負うと言っている。
壁の向こうで。顔も見えないのに。
顔が見えないから、言えたのだ。
この人も。私も。
最初の夜から、ずっと、そうだった。
私は、壁の月を見上げた。
半分の、金色の月。壁の上で、もう半分とつながっている、ひとつの満月。
その下の、砂浜に。小さな女の子と、小さな男の子。
「……三森蒼」
声に出してみた。
「悪くないね」
壁の向こうで、息を呑む音がした。
「それって」
「はい」
私は、言った。
「はい。よろしくお願いします」
壁の向こうが、しんとした。
それから。
ざばあっ、と、ものすごい水音がした。
湯の中で、何かが暴れたような。桶がひっくり返ったような。カコーン、と、黄色い桶がタイルの上を転がっていく音が、壁を越えて、響きわたった。
私は、湯船のふちに突っ伏して、笑った。
笑って、笑って、それから、少しだけ泣いた。
しばらくして、壁の向こうの騒ぎが、ようやくおさまった。
ちゃぷん、と、湯に浸かり直す音。
ふう、という、長い、長い息。
それから、いつもの、低い声が、壁を越えて降ってきた。
「……湯加減、どうですか」
私は、柚子のにおいの湯気の中で、目を閉じた。
熱くて、透明で、少しだけ、ぴりっとする。
祖母の湯。
私の湯。
私たちの、湯。
「――ちょうどいい」




