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第8話 ここにいる理由(蒼)

 一か所に、ひと月以上いるのは、初めてだ。


 朝、目が覚めると、天井の染みが同じ形をしている。それが、まだ少し、落ち着かない。


 俺の暮らしは、ずっと軽バンの中にあった。


 白い軽バン。走行距離は、二十八万キロを超えた。後ろの荷台に、ペンキの缶と、ローラーと、刷毛と、脚立と、寝袋。それで全部だ。


 北は北海道、南は九州。銭湯の壁を描いてほしいという電話が来れば、どこへでも行く。前の晩に着いて、軽バンで寝て、朝から一日で壁を描く。描き終わったら、その銭湯の湯に入れてもらって、次の町へ行く。


 壁を描いて、湯に入って、次の町へ。


 それを、十二年続けてきた。


 東京で仕事があるときだけ、月見湯の二階に泊まった。ハルさんが、それを許してくれた。


 ――あんたの部屋だよ。好きに使いな。


 そう言われても、私物はほとんど置かなかった。歯ブラシと、着替えが少し。いつでも出ていけるように。


 それが、今は。


 朝五時に起きて、薪を割る。台所から、味噌汁のにおいがしてくる。


「おはようございます」と、ふすまの向こうから声がする。




 最初は、腹を立てていた。


 ハルさんの最後の三週間。あの人は、一度も来なかった。


 ハルさんは病室の窓から、ずっと入り口のほうを見ていた。看護師さんが来るたびに、少しだけ顔を上げて、それから、何もなかったみたいに目を伏せた。


 あの夜、俺は三回、あの人に電話をかけた。三回とも、出なかった。


 だから、七月十五日、湯気の向こうにデッキブラシを構えたあの人が立っていたとき、俺は、ひどいことを言った。


 たぶん、あなたより、よく。


 あれは、言うべきじゃなかった。


 壁ごしに、あの夜の話を聞いた。夫にスマホを預けて、四時間、笑っていた話。うなずいて、帰って、寝てしまった話。


 あの人は、自分を責めていた。行こうと思えば行けたのに、と。


 俺には、そうは思えなかった。


 行こうと思うことさえ、取り上げられていた人の話に聞こえた。




 最初の日、番台の上のあの人の声は、小さかった。


 いらっしゃいませ、が、蚊の鳴くような声だった。タツさんに言われて「おかえりなさい」に変えてからも、しばらくは、のれんの外まで届かなかった。


 それが、二週間で変わった。


「おかえり」が、釜場まで聞こえるようになった。キヨさんたちと女湯で何を話しているのか知らないが、壁の向こうから「何の話ですか!」という悲鳴が聞こえてきたときは、男湯にいたタツさんと二人で、思わず顔を見合わせた。


 あの人は、笑うようになった。


 ひなたに「ふうふ?」と聞かれて、真っ赤になって手を振っていた。


 ――俺の耳が赤かったことは、忘れてほしい。


 その翌日、男湯で、タツさんにつかまった。


 開店直後の、まだほかに誰もいない湯船。タツさんは、肩まで湯に浸かって、湯気の向こうから俺をにらんでいた。俺は、湯温を確かめに来ただけだった。


「ペンキ屋」


「はい」


「おめえ、いつまでいる気だ」


「冬至のあとまでです。壁を描くまで」


「ふうん」


 タツさんは、湯の中で、首をこきりと鳴らした。


「ハルさんの孫はな」


「……はい」


「いい女になったぞ」


 桶を持つ手が、止まった。


「ガキのころは、鼻の皮むいて、番台のまわりを走り回ってるだけのチビだったがな。……ハルさんの若いころに、そっくりだ」


「……知ってます」


 口から、出ていた。


 タツさんが、湯の中で、にやりと笑った。


「知ってんのか」


 俺は、黙って桶を置いて、男湯を出た。背中で、タツさんの、がっはっはという笑い声が、いつまでも響いていた。


 あの人の手は、毎日、少しずつ荒れていく。


 爪を短く切ったのは、薪割りを始めた日だった。きれいな色が塗ってあった爪を、全部。それから、鉈を握るようになって、手のひらにマメができた。マメがつぶれて、皮がむけて、それでも、毎朝五時に釜場に来る。


 文句は言わない。痛いとも言わない。


 ただ、ときどき、手のひらにふうふうと息を吹きかけている。俺が見ていないと思っているときに。


 しまい湯で、あの人は、ときどき鼻歌を歌う。


 自分では、気づいていないらしい。湯に浸かってしばらくすると、壁の向こうから、小さな、少し調子っぱずれの歌が聞こえてくる。


 古い歌だ。昭和の、港町の歌。


 ハルさんが、しまい湯でよく歌っていた歌だった。


 初めてそれを聞いた夜、俺は、湯の中で動けなくなった。


 壁の向こうに、ハルさんがいるのかと思った。


 違った。あの人だった。たぶん、子どものころ、番台の横で聞いていたのを、体が覚えているのだ。


 ――あの人は、自分が覚えていることに、気づいていないことが多い。


 鼻歌が途切れて、「……今、私、歌ってた?」と、壁の向こうで、あわてた声がした。


「歌ってました」


「うそ。忘れて」


「無理です」


 壁の向こうで、ばしゃっと湯が鳴った。たぶん、湯に沈んだのだと思う。




 俺の母は、待つ人だった。


 俺が九つの夏、父は出ていった。借金と、女。よくある話だ。


 母は、父を待った。


 父の茶碗を、台所の棚の、いちばん手の届きやすいところに置いたまま。洗って、拭いて、また棚に戻す。毎日。


 いつか帰ってくるから。


 そう言って、母は十年待った。


 俺が十九のとき、母は病気で死んだ。父は、葬式にも来なかった。棚の茶碗は、最後まで、一度も使われなかった。


 あの茶碗を、俺は、自分の手で割った。


 それから、決めた。


 待たせる側にも、待つ側にも、ならない。


 どこにも根を張らない。誰とも約束しない。壁を描いて、湯に入って、次の町へ行く。


 そうすれば、誰も、棚に茶碗を置かずにすむ。




 道具箱の底に、短い色鉛筆が一本、入っている。


 青い色鉛筆だ。削って、削って、もう指の長さもない。


 二十年以上、使えずにいる。


 これを見るたびに、思う。


 ――あの人は、覚えていない。


 それでいい。


 覚えていないほうが、いい。




 月曜日。定休日。


 午前中、埼玉の銭湯で、小さな壁を一枚描いた。帰りに、ホームセンターに寄った。


 作業用品の売り場で、軍手の棚の前に、二十分立っていた。


 革の手袋。女性用のサイズ。手のひらに、厚い当て布がついているもの。


 あの人の手の大きさを思い出そうとして、鉈を握る手に自分の手を重ねたときのことを思い出して、それで二十分かかった。


 レジのおばちゃんに、「彼女さんへのプレゼント?」と聞かれた。


「違います」


 即答した。おばちゃんは、なぜか、にやにやしていた。




 夜、月見湯に戻ると、あの人は台所で、明日の仕込みをしていた。


「おかえりなさい。ごはん、ありますよ。肉じゃが」


「……これ」


 ホームセンターの袋ごと、差し出した。


 あの人は、きょとんとした顔で袋を受け取って、中をのぞいた。


「手袋……?」


「マメ。つぶれてるんで」


 それだけ言って、俺は台所を出た。


 何か、言われる前に。


「ちょっと、葛城さん!」


 背中に、声が飛んできた。


「ありがとう!」


 振り向かなかった。振り向いたら、どんな顔をすればいいかわからなかった。


 釜場へ逃げこんで、意味もなく、明日の薪の山を数えた。


 四十二本あった。数え直したら、四十一本だった。




 次の日の午後。


 開店まで、あと一時間。


 釜場で火の具合を見て、浴場へ湯の温度を確かめに行こうとしたとき、番台のほうから、あの人の声が聞こえてきた。


 電話をしているらしい。


 盗み聞きするつもりはなかった。でも、その声が、あまりにもいつもと違っていたから、足が止まった。


「……はい」


 小さな声だった。


「はい……そう、です。……いえ、そんなつもりじゃ」


 最初の日の、いらっしゃいませ、よりも、もっと小さい声。


「……ごめんなさい」


 あの人が、謝っていた。


 何も悪いことをしていないはずの声で。


 俺は、廊下の陰から、番台をのぞいた。


 あの人は、番台の上で、背中を丸めていた。スマホを耳に当てて、もう片方の手で、昨日渡した手袋を、ぎゅっと握りしめていた。


 やがて、通話が切れたらしい。あの人は、スマホを耳から離して、じっと画面を見つめた。


 明るい画面に、名前が残っていた。


 『雅人さん』

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