第7話 番台は、見ないふりして全部見る
月見湯を再開して、二週間がたった。
毎朝五時に起きて、薪を割る。釜に火を入れる。浴場を流す。お昼を食べて、買い出しに行って、午後三時半にのれんを掛ける。夜十一時にのれんを下ろす。掃除をして、しまい湯に入る。
しまい湯では、葛城さんと、壁ごしに少しだけ話す。
その日の客のこと。天気のこと。定休日の月曜に、彼が千葉の銭湯で壁を描いてきた話。どれも、たいした話じゃない。でも、なぜか、一日の中でいちばん楽しみな時間になっていた。
……いや、楽しみというか。ほっとする、というか。
それはそれとして、問題は、お金だった。
番台の上で、私は電卓を叩いていた。
この二週間の客は、一日平均で四十人と少し。大人五百五十円。子どもはもっと安い。
対して、出ていくお金。ガス代、水道代、電気代。薪の運搬代。シャンプーや石けんの仕入れ。古い建物はあちこちが傷んでいて、昨日は脱衣所の蛇口から水が漏れた。
祖母の日誌をめくって、去年の数字と見比べる。祖母の代で、一日九十人から百人。それでも、ぎりぎりだったらしい。
つまり、今の私は、毎日赤字を垂れ流している。
冬至まで、という期限があるからいいようなものの――。
「ちなっちゃん、また眉間にしわ寄ってる」
顔を上げると、ルミ子さんが番台をのぞきこんでいた。
土曜日の午後四時。今日は、少し早めのご来店だ。
「数字ばっかり見てると、顔が数字になるわよ」
「顔が数字って、どんな顔ですか」
「八の字眉」
うまいこと言った、という顔をしてから、ルミ子さんは、女湯の脱衣所に向かって声を張り上げた。
「キヨさーん! ちなっちゃん、つかまえたわよー!」
「よし来た!」
女湯のガラス戸の向こうから、キヨさんの声がした。
「……つかまえた?」
「キヨさんがね、あんたに背中流してほしいんだって。ハルちゃんにいつもやってもらってたのよ」
「でも、番台が」
「わたし、やります!」
のれんをくぐってきたのは、沙耶さんだった。今日はパートがお休みらしい。ひなたちゃんの手を引いている。
「わたし、一度、番台に座ってみたかったんです。二十分くらいなら、大丈夫です」
「沙耶ちゃん、えらい!」
ルミ子さんが拍手した。
……どうやら、最初から仕組まれていたらしい。
女湯の洗い場で、私は、キヨさんの背中を流していた。
小さな背中だった。背骨がぽこぽこと浮いていて、肩甲骨がとがっていて、肌はうすくて、やわらかい。七十九年分の背中。
「もうちょっと強く。そうそう、そこ。ハルちゃんはね、もっと容赦なかったよ」
「容赦なく、ですか」
「皮がむけるくらいさ」
それは容赦がなさすぎる。
隣のカランでは、ルミ子さんが、長い髪を洗っていた。ルミ子さんの体は、五十六歳とは思えないくらい、きれいだった。
で、私はというと、タオルで前を隠したまま、ちぢこまっていた。
「あんた、なんでそんなに縮こまってんだい」
キヨさんが、首だけ振り向いた。
「えっ」
「女湯で前を隠す女は、二種類しかいないよ。若い娘か、自分の体が嫌いな女さ。あんた、若い娘って年じゃないだろ」
ぐさっと来た。
「キヨさん、言い方」
ルミ子さんが、シャンプーの泡の中から笑った。
「いいんだよ、本当のことなんだから。……ねえ、千夏ちゃん」
「はい」
「あんた、最後に男に触られたの、いつだい」
私は、手に持っていた桶を落とした。
カコーン、と盛大な音が浴場じゅうに響いた。
「な、な、何を」
「いつだい」
「……お、覚えてません」
本当だった。夫とは、最後の何年かは、そういうことがほとんどなかった。夫は疲れていると言い、私は、私に魅力がないからだと思っていた。
「もったいないねえ!」
キヨさんが、心の底から嘆くように言った。
「三十五なんて、これからが食べごろだってのに」
「キヨさん、ちなっちゃん困ってるでしょ」
ルミ子さんは、そう言ってたしなめてから、くるりとこちらを向いた。
「……で、ほんとはいつ?」
「ルミ子さんまで!」
二人は、顔を見合わせて、けらけらと笑った。
それから、ルミ子さんが、ちらりと男湯との仕切り壁を見上げた。
「それにしても、壁の向こうのペンキ屋さん。いい腕してるわよねえ」
「腕なら、あたしも見たよ。薪割ってるとこ」
「でしょ? あの腕で鉈なんか振られたら、あたしなら薪になってもいいわ」
「何の話ですか!」
私の声が、いちばん大きく響いた。
壁の向こうは、男湯だ。いま、誰が入っているかは知らない。でも、とにかく、聞こえていませんように。
背中を流し終えると、キヨさんは、どっこいしょと立ち上がって、湯船に向かった。
そのとき、キヨさんのお腹に、縦に一本、大きな傷痕があるのが見えた。
私の視線に気づいたのだろう。キヨさんは、隠すどころか、ぽんとお腹を叩いてみせた。
「これかい? これはね、勲章さ」
「勲章……」
「帝王切開。息子が二人、ここから出てきたんだよ。上のは難産でね、もうだめかと思ったさ。それが今じゃ、孫が四人だ」
キヨさんは、ゆっくりと湯に浸かった。ああ、極楽、と目を細める。
「女の体ってのはね、千夏ちゃん。男に見せるためにあるんじゃないよ。自分が生きてきた跡なんだ。しわも、たるみも、傷も、全部さ」
私は、タオルを握ったまま、立ちつくしていた。
自分の体を、鏡で見るたびに、いつも思っていた。
お腹が出てきた。二の腕が太くなった。夫は、どう思うだろう。
夫は、どう思うだろう。
――私はいつから、自分の体を、自分の目で見なくなったんだろう。
「ほら、さっさと入んな。湯が冷めるよ」
キヨさんに言われて、私は、そっとタオルを外した。
湯に浸かる。熱い。ぴりっとする。
ルミ子さんが、隣に来て、黙って私の肩をぽんと叩いた。
「おつきさま、げんきないね」
その日の夕方、ひなたちゃんが言った。
沙耶さんと一緒に女湯に入っていたひなたちゃんが、湯船のふちにつかまって、壁の絵を見上げていた。
「げんきない?」
「だって、しろいもん。おつきさまって、きいろいんだよ」
壁の月は、色が褪せて、ほとんど白い。言われてみれば、たしかに、元気がないように見える。
「冬になったらね、きれいに描き直してもらうんだよ」
「ふゆ? ふゆって、いつ?」
「……まだ、ちょっと先かな」
ひなたちゃんは、ふうん、と言って、もう一度月を見上げた。
その横顔が、なんだか、少しさびしそうに見えた。
その週から、私は、二つのことを始めた。
一つは、SNSのアカウント。月見湯の写真を、毎日一枚。のれん、湯気、釜の火、積み上がった黄色い桶。タツさんの背中は、本人の許可をもらって載せた。「俺の背中が世界に羽ばたくのか」と、タツさんは妙にうれしそうだった。
もう一つは、手描きの『月見湯だより』。A4の紙一枚に、今週の湯の話や、常連さんの似顔絵や、ちょっとしたお知らせを描いて、番台の横に置く。
第一号の見出しは、『キヨさんの勲章』にした。キヨさんの許可は、もちろんもらった。キヨさんは、それを三十枚持って帰って、アパートじゅうに配ったらしい。
「こういうの、得意なんですね」
番台に麦茶を置きに来た葛城さんが、月見湯だよりを手に取って、言った。
「昔、仕事にしてたの」
言ってから、気づいた。敬語が抜けていた。
葛城さんは、気にした様子もなく、紙をじっと見ている。
「この似顔絵、タツさんにそっくりです」
「でしょ?」
「鼻毛まで」
「そこは愛情」
葛城さんが、ふっと笑った。ひなたちゃんに向けるのと同じ、目尻がくしゃっとなる笑い方。
私に向けられたのは、初めてだった。
ちょっと、心臓に悪い。
「ねえねえ」
足もとで声がした。
お風呂上がりのひなたちゃんが、番台の下から、私と葛城さんを交互に見上げていた。
「ちなつちゃんと、あおちゃんは、ふうふ?」
しん、と、脱衣所が静まりかえった。
男湯でも、女湯でも、着替えていた人たちの手が、いっせいに止まった。
それから、両方の脱衣所が、どっと沸いた。
「ひなたちゃん、それ、もっと言ってやんな!」
女湯から、キヨさんの声。
「ペンキ屋、どうなんだ、ああ?」
男湯から、タツさんの声。
「ちっ、ちがうよ! ちがうからね、ひなたちゃん!」
私は、番台の上で両手を振った。顔が燃えるように熱い。
隣を見る。
葛城さんは、麦茶のお盆を持ったまま、無言で立っていた。
表情は、いつもの能面だった。
でも、耳が。
耳だけが、真っ赤だった。




