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第6話 壁ごしの声

「……ちょうどいい、です」


 しばらくかかって、私はやっとそれだけ答えた。


 声が、浴場のタイルに反響して、思ったより大きく響いた。慌てて口を押さえる。押さえてどうなるものでもないのに。


「そうですか」


 壁の向こうで、ちゃぷ、と湯が揺れた。


 それきり、また静かになった。


 換気扇の回る音。天井から落ちるしずくの音。湯船に湯を足す、ちょろちょろという細い音。


 私は、湯の中で膝を抱えた。


 壁一枚。高さは、二メートル半くらい。その上は、天井まで、ぽっかりと開いている。湯気が壁を越えて、行ったり来たりしているのが見える。


 つまり、向こうからも、こっちの湯気が見えているということで。


 ……いや、湯気だけだ。湯気しか見えない。落ち着け。


「……今日、三十八人でした」


 何を言っていいかわからなくて、私は、番台で数えた数字を口にした。


「知ってます」


「え?」


「釜場まで、格子戸の音が聞こえるんで。数えてました」


「数えてたの?」


「火の番は、暇なんで」


 薪をくべながら、格子戸ががらがら鳴るたびに、指を一本ずつ折っている大男を想像して、少し笑ってしまった。


「ハルさんのころは、百人くらいでした」


「……うん。日誌、読んだ」


「でも、初日にしては、多いと思います」


 それきり、また静かになった。


 慰めてくれたのかもしれない。よくわからない人だ。


「あの」


 また沈黙に耐えられなくなったのも、やっぱり私のほうだった。


「毎晩、こうしてたんですか。閉店のあと」


「ハルさんがいたころは」


 壁の向こうの声は、昼間より少しやわらかく聞こえた。湯気のせいかもしれない。


「しまい湯は、ハルさんが女湯で、俺が男湯でした」


「しまい湯」


「その日、最後の湯のことです。ハルさんがそう呼んでた」


 しまい湯。


 知らなかった。夏休みのあいだ、私はいつも夜の九時には寝かされていたから。


「ハルさん、壁ごしだと、よくしゃべるんです」


「祖母が?」


「顔が見えないほうが、しゃべりやすいって。年寄りはそういうもんだって、言ってました」


 ふっと、笑いそうになった。


 祖母が、壁の向こうで、この人を相手におしゃべりをしている姿が目に浮かんだ。湯気の中で、たぶん、商店街の噂話とか、タツさんの悪口とか、昔の話とか。


 顔が見えないほうが、しゃべりやすい。


 それは、年寄りだけじゃないのかもしれない。


 私は、湯の中で、ぎゅっと手を握った。


「葛城さん」


「はい」


「あの夜のこと、聞いてもらえますか」


 壁の向こうで、湯の音が止まった。


「……どうぞ」




 四月十五日。


 その夜、私は、都内のホテルの宴会場にいた。


 夫の会社の、大事な取引先の、創業何十周年かのパーティーだった。夫は、こういう場に私を連れていくのが好きだった。妻を同伴できる男は信用される、というのが彼の口癖だった。


 ドレスは、夫が選んだ紺色のワンピース。髪は、夫の好きな、肩より長いまま。


 会場に入る前に、夫は手のひらを差し出した。


「スマホ、預かるよ」


「え?」


「会場で鳴ったら失礼だろう。君は、すぐ画面を見るくせがあるから」


 笑って、そう言った。私は、少しだけ迷った。祖母の容態が気になっていたから。


 でも、渡した。


 いつものことだったから。


 それから四時間、私は笑っていた。知らない人にお酌をして、知らない人の奥さんと、子どもの学校の話や、旅行の話をした。夫の隣で、夫の妻として、ちゃんと笑っていた。


 夜の十一時過ぎ。帰りのタクシーで、夫は私にスマホを返した。


 画面に、着信が並んでいた。


 病院から、五件。


 それから、知らない番号から、三件。


「……それ」


 壁の向こうで、かすれた声がした。


「たぶん、俺です」


 私は、息を止めた。


「ハルさんの手帳に、あなたの番号が書いてあったんで。九時すぎから、何回か、かけました」


 知らない番号から、三件。


 あの夜、病院のベッドのそばにいたのは、この人だったのだ。


「すぐ病院に行きたいって、言ったんです」


 私は、続けた。続けなければ、もう二度と話せない気がした。


「そしたら、夫が言いました。もう遅いし、明日にしよう。今行っても、何もできないだろう、って」


 壁の向こうは、しんとしていた。


「私、うなずいたんです」


 声が震えた。


「うなずいて、そのまま家に帰って、お風呂に入って、寝たんです。……祖母が、もう、亡くなってたのに。知らなかったけど。知らなかったけど、でも、行けたんです。行こうと思えば。タクシーを降りて、一人で行けばよかったのに」


 八年間、そうだった。


 夫が明日にしようと言えば、明日にした。君のためだよ、と言われれば、それが私のためなのだと思った。少しずつ、少しずつ、自分で決めるということを忘れていった。


 気がついたら、祖母の死に目さえ、自分で決められない女になっていた。


「次の朝、病院から電話があって。……それで、目が覚めました。このままじゃ、だめだって。それで、家を出ました」


 言い終えると、喉がからからだった。


 湯の音だけが、していた。


 長い、長い沈黙のあとで。


「……すみませんでした」


 壁の向こうから、低い声がした。


「勝手に、決めつけてた。来なかったんじゃなくて、来られなかったのに」


「違います。来られたんです、私。来ようと思えば」


「ハルさんは」


 葛城さんは、私の言葉にかぶせるように言った。


「ハルさんは、わかってました」


「……え?」


「病室で、俺が、お孫さんはいつ来るんですかって聞いたら」


 少し間があった。


「千夏は、帰ってこられないんだよ。帰らないんじゃない。……そう言ってました」


 湯気が、ぐらりと揺れた気がした。


 帰ってこられないんだよ。


 帰らないんじゃない。


 祖母は、知っていたのだ。電話の声が細いことも、誕生日に電話がないことも、その理由も。全部わかっていて、それでも、待っていたのだ。


「俺、ハルさんにそう言われても、わかってなかったです。あなたに腹を立ててた。……すみません」


 私は、返事ができなかった。


 口を開いたら、声が出てしまいそうだった。泣き声が。


 湯船のふちに額をつけて、歯を食いしばる。肩が震えて、湯がちゃぷちゃぷと揺れる。


 壁の向こうに、きっと聞こえている。


 そう思った、そのとき。


 ざばっ、と、男湯のほうで大きな水音がした。


 続けて、ざばっ、ざばっ。桶で湯をかぶっているような音。


「泣いてもいいですよ」


 水音の合間に、声がした。


「湯の音で、聞こえないことにしときます」


 ――ずるい。


 そんなふうに言われたら、もう、こらえられない。


 私は、声を上げて泣いた。


 四月から、ずっと泣けなかった。お葬式でも、家を出た夜も、離婚届を出した日も。泣いたら、自分が悪かったことを認めてしまう気がして。泣く資格なんて、ないと思っていた。


 男湯のほうでは、ざばっ、ざばっと、湯をかぶる音が、ずっと続いていた。


 あとで聞いたら、三十杯はかぶったらしい。のぼせなかったのかと聞いたら、少しのぼせました、と真顔で言われた。




 どれくらい、そうしていたかわからない。


 泣き疲れて、ぼんやりと壁の月を見上げていた。半分だけの、白い月。


 男湯の水音は、いつの間にか止んでいた。


「……三森さん」


「はい」


 自分の声が、ひどく鼻声で、少し恥ずかしかった。


「明日も、しまい湯、入りますか」


 明日も。


 壁の向こうで、湯が揺れる気配がした。


 私は、湯の中で膝を抱え直した。体の芯まで、あたたかかった。


「……入ります」


「そうですか」


 それだけ言って、壁の向こうの人は、湯から上がっていった。


 ぺたぺたという足音。ガラス戸の閉まる音。


 私は、もう少しだけ、湯に浸かっていた。


 それが、私たちの、壁ごしの夜のはじまりだった。

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