↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/30

第5話 のれんを上げる日

 八月一日。


 朝から、雲ひとつない空だった。


 商店街の掲示板と、町内会の回覧板と、月見湯の格子戸に貼った手描きのポスターは、この一週間で、すっかり町の噂になっていた。八百屋のおかみさんには「あんたが描いたの? 上手だねえ」と言われ、魚屋のご主人には「何時から?」と三回聞かれた。


 開店は、午後三時半。祖母のころと同じだ。


 午後二時。


 様子を見に表へ出ると、縁台に、もうタツさんが座っていた。


 洗面器を膝に載せて、手ぬぐいを肩にかけて、扇子をぱたぱたやっている。


「……まだ一時間半ありますけど」


「知ってらあ」


「暑くないですか」


「暑いに決まってんだろ」


 じゃあなぜ、と言いかけてやめた。祖母の日誌にも、毎日のように書いてあった。『タツ、今日も一番乗り』。


 この人にとって、これは生活の一部なのだ。四か月、それを奪われていたのだ。


 私は台所に戻って、冷たい麦茶をコップに入れて持っていった。タツさんは「おう」とだけ言って受け取り、一息で飲み干した。




 午後三時。


 釜場では、葛城さんが汗だくで火の番をしていた。湯温計の針は、四十三度。祖母の湯の温度だ。


「準備、できました」


 湯船を確かめに行った私に、葛城さんが言った。


「じゃあ、タツさんを――」


「その前に」


 葛城さんは、首のタオルで額の汗をぬぐった。


「一番風呂。あなたが入ってください」


「え?」


「日誌に、書いてあったでしょう」


 千夏が来たら、一番風呂に入れてやっとくれ。


「でも、タツさんが、ずっと待って」


「タツさんには、言ってあります」


 言ってある?


 慌てて表に出ると、縁台のタツさんが、扇子でこっちを指した。


「今日の一番風呂は、あんただ」


「タツさん……」


「ハルさんの言いつけだろ。ハルさんの言いつけにゃ、俺は逆らわねえって決めてんだ。五十年前からな」


 タツさんは、そっぽを向いて扇子をぱたぱたやった。


「さっさと入んな。俺が茹で上がっちまう」




 女湯の脱衣所で服を脱ぐのは、何年ぶりだろう。


 籠に服をたたんで入れる。鏡に、自分の体が映った。


 白い肌。丸くなった肩。少しやわらかくなったお腹。


 ――最近、ちょっと、ね。


 夫の声がした。結婚して何年目かから、彼は時々、私のお腹を指でつまんで、笑いながらそう言うようになった。冗談だよ、と言って。君のためを思って言ってるんだよ、と言って。


 私は、鏡から目をそらした。


 ガラス戸を開ける。


 誰もいない女湯。高い天窓から、午後の光がまっすぐ落ちてきて、湯船の水面できらきらと揺れていた。タイルの青。湯気。湯の音。


 かけ湯をして、そっと、足を入れる。


 熱い。


 ぴりっとする。


 子どものころと、まったく同じ熱さだった。


 肩まで沈む。全身の肌が、ちりちりと熱に驚いて、それから、ゆっくりとほどけていく。


 顔を上げると、壁の絵が見えた。色褪せた夜の海と、月。月は、男湯と女湯を仕切る壁の、ちょうど真上にあって、女湯からは半分しか見えない。半分だけの、白い月。


 ――一番風呂はね、湯がいちばん尖ってるんだよ。


「……ただいま、おばあちゃん」


 小さな声で言ったら、もう、だめだった。


 湯気のせいにして、私は少しだけ泣いた。




 午後三時半。


 私は、藍色ののれんを、軒先に掛けた。白く染め抜いた「ゆ」の字と、小さなうさぎ。祖母が四十年使った、色の褪せたのれんだ。


 タツさんが、のれんをくぐる。


「……いらっしゃいませ」


 番台から言うと、タツさんは、ぎょっとした顔で私を見上げた。


「銭湯で、いらっしゃいませはねえだろう」


「えっ。じゃあ、なんて」


「ハルさんは、『おかえり』って言ってたよ」


 おかえり。


 タツさんは、五百五十円を番台に置いて、そのまま男湯の脱衣所へ入っていった。


「……おかえりなさい、タツさん」


 背中に向かって言うと、タツさんは振り向かずに、片手だけ上げた。


 そして、その手で、いきなり腹巻きを外しはじめた。


 ――そうだった。


 番台からは、男湯の脱衣所が丸見えなのだ。


 私は慌てて、天井を見上げた。


「なんでえ、天井に何かあんのか」


「な、なんでもないです!」


「減るもんじゃなし、見てえなら見ろ」


「見ません!」


 男湯の脱衣所で、タツさんが、がっはっはと笑った。八十二歳の笑い声は、びっくりするほどよく響いた。


「ハルさんがよく言ってたぜ。番台はな、見ないふりして、全部見る場所だってよ」


 見ないふりして、全部見る。


「年寄りが脱衣所で倒れてねえか。顔色の悪いやつはいねえか。財布を忘れた子どもはいねえか。そういうのをな、見ないふりして、全部見てたんだよ、ハルさんは」


 タツさんは、手ぬぐいを肩にかけて、浴場のガラス戸を開けた。


「あんたも、そのうちわかるさ」


 ぴしゃん、とガラス戸が閉まった。


 私は、番台の上で、祖母の座布団に座り直した。


 見ないふりして、全部見る。


 その言葉を、胸の中で、何度か転がしてみた。




 初日の客は、三十八人だった。


 祖母の日誌の、半分にも届かない。


 それでも、ひとり来るたびに、私はうれしかった。


 キヨさんは開店十分後に来て、「やっぱり、ここの湯がいちばんだよ」と言いながら、番台に向かって手を合わせた。私にではなく、たぶん、祖母に。


 夕方六時、ルミ子さんが来た。今日はばっちりお化粧をしていて、別人みたいにきれいだった。「ちなっちゃん、番台、似合うじゃない」とウインクして、女湯に消えた。


 七時すぎ、保育園帰りの沙耶さんとひなたちゃん。


「ただいまー!」


 ひなたちゃんは、のれんをくぐるなり、元気いっぱいに叫んだ。


「おばあちゃんがね、ここではね、ただいまっていうんだよって、いってたの」


 私は、番台の上から、ひなたちゃんに手を振った。


「おかえり、ひなたちゃん」


 スーツ姿の若いサラリーマンが、のれんをくぐりかけて、番台の私と目が合って、真っ赤になって固まる、という場面もあった。たぶん、祖母の代には、こういうことはなかったのだと思う。私は、できるだけ天井を見ることにした。


 夜八時ごろ、番台の横に、すっと冷たいコップが置かれた。


 麦茶だった。


 見ると、煤で頬を黒くした葛城さんが、もう釜場へ戻っていくところだった。


 何も言わずに。


 閉店まぎわ、脱衣所に忘れた手ぬぐいを取りに戻ってきたキヨさんが、番台の前で足を止めた。


「千夏ちゃん」


「はい」


「今日、何人来たか、覚えてるかい」


「三十八人です」


「そのうち、名前がわかるのは」


 私は、指を折って数えた。タツさん、キヨさん、ルミ子さん、沙耶さん、ひなたちゃん。商店街の八百屋のおかみさん。魚屋のご主人。


「……七人、です」


「明日は、八人にしな」


 キヨさんは、にっと笑った。


「ハルちゃんはね、客の名前を、全部覚えてたよ。名前で『おかえり』って言われるとね、人間ってのは、また来たくなるもんなのさ」


 そう言って、キヨさんは、のれんをくぐって帰っていった。


 名前で、おかえり。


 私は、番台の上で、今日来たお客さんの顔を、ひとりずつ思い浮かべた。




 夜十一時。


 最後のお客さんを見送って、のれんを下ろした。


 それから、掃除。男湯の湯を抜いて、湯船をこすり、両方の洗い場を流し、脱衣所の床を拭く。二人がかりで、一時間近くかかった。


「先、入ってください」


 男湯の掃除を終えた葛城さんが、言った。


「女湯の湯、少し残してあります。まだ温かいんで」


「え、でも、掃除……」


「明日の朝、流せばいいです。ハルさんも、そうしてました」


 閉店後に、残り湯に入る。それも祖母の習慣だったらしい。




 夜中の十二時半。


 誰もいない女湯で、私は湯に浸かっていた。


 体じゅうが痛い。足は棒みたいだし、腕は上がらないし、短く切った爪のあいだには、まだ薪の木屑が入っている。


 でも、不思議と、気分は悪くなかった。


 三十八人。


 あのひとたちが、今夜は、あたたかい体で眠るのだ。


 ぼんやりと壁の月を見上げていたとき。


 壁の向こうで、ちゃぷん、と水音がした。


 男湯だ。


 男湯と女湯を仕切る壁は、天井まで届いていない。上のほうが、ぽっかりと開いている。だから、向こうの音が、そのまま聞こえてくる。


 湯をかける音。ふう、という、長い息。


 私は、湯の中で、身じろぎもできなくなった。


 壁一枚。


 壁一枚向こうに、あの人が、いる。


 しばらく、湯の音だけがしていた。


 それから。


「……湯加減、どうですか」


 壁の向こうから、低い声が降ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。