第5話 のれんを上げる日
八月一日。
朝から、雲ひとつない空だった。
商店街の掲示板と、町内会の回覧板と、月見湯の格子戸に貼った手描きのポスターは、この一週間で、すっかり町の噂になっていた。八百屋のおかみさんには「あんたが描いたの? 上手だねえ」と言われ、魚屋のご主人には「何時から?」と三回聞かれた。
開店は、午後三時半。祖母のころと同じだ。
午後二時。
様子を見に表へ出ると、縁台に、もうタツさんが座っていた。
洗面器を膝に載せて、手ぬぐいを肩にかけて、扇子をぱたぱたやっている。
「……まだ一時間半ありますけど」
「知ってらあ」
「暑くないですか」
「暑いに決まってんだろ」
じゃあなぜ、と言いかけてやめた。祖母の日誌にも、毎日のように書いてあった。『タツ、今日も一番乗り』。
この人にとって、これは生活の一部なのだ。四か月、それを奪われていたのだ。
私は台所に戻って、冷たい麦茶をコップに入れて持っていった。タツさんは「おう」とだけ言って受け取り、一息で飲み干した。
午後三時。
釜場では、葛城さんが汗だくで火の番をしていた。湯温計の針は、四十三度。祖母の湯の温度だ。
「準備、できました」
湯船を確かめに行った私に、葛城さんが言った。
「じゃあ、タツさんを――」
「その前に」
葛城さんは、首のタオルで額の汗をぬぐった。
「一番風呂。あなたが入ってください」
「え?」
「日誌に、書いてあったでしょう」
千夏が来たら、一番風呂に入れてやっとくれ。
「でも、タツさんが、ずっと待って」
「タツさんには、言ってあります」
言ってある?
慌てて表に出ると、縁台のタツさんが、扇子でこっちを指した。
「今日の一番風呂は、あんただ」
「タツさん……」
「ハルさんの言いつけだろ。ハルさんの言いつけにゃ、俺は逆らわねえって決めてんだ。五十年前からな」
タツさんは、そっぽを向いて扇子をぱたぱたやった。
「さっさと入んな。俺が茹で上がっちまう」
女湯の脱衣所で服を脱ぐのは、何年ぶりだろう。
籠に服をたたんで入れる。鏡に、自分の体が映った。
白い肌。丸くなった肩。少しやわらかくなったお腹。
――最近、ちょっと、ね。
夫の声がした。結婚して何年目かから、彼は時々、私のお腹を指でつまんで、笑いながらそう言うようになった。冗談だよ、と言って。君のためを思って言ってるんだよ、と言って。
私は、鏡から目をそらした。
ガラス戸を開ける。
誰もいない女湯。高い天窓から、午後の光がまっすぐ落ちてきて、湯船の水面できらきらと揺れていた。タイルの青。湯気。湯の音。
かけ湯をして、そっと、足を入れる。
熱い。
ぴりっとする。
子どものころと、まったく同じ熱さだった。
肩まで沈む。全身の肌が、ちりちりと熱に驚いて、それから、ゆっくりとほどけていく。
顔を上げると、壁の絵が見えた。色褪せた夜の海と、月。月は、男湯と女湯を仕切る壁の、ちょうど真上にあって、女湯からは半分しか見えない。半分だけの、白い月。
――一番風呂はね、湯がいちばん尖ってるんだよ。
「……ただいま、おばあちゃん」
小さな声で言ったら、もう、だめだった。
湯気のせいにして、私は少しだけ泣いた。
午後三時半。
私は、藍色ののれんを、軒先に掛けた。白く染め抜いた「ゆ」の字と、小さなうさぎ。祖母が四十年使った、色の褪せたのれんだ。
タツさんが、のれんをくぐる。
「……いらっしゃいませ」
番台から言うと、タツさんは、ぎょっとした顔で私を見上げた。
「銭湯で、いらっしゃいませはねえだろう」
「えっ。じゃあ、なんて」
「ハルさんは、『おかえり』って言ってたよ」
おかえり。
タツさんは、五百五十円を番台に置いて、そのまま男湯の脱衣所へ入っていった。
「……おかえりなさい、タツさん」
背中に向かって言うと、タツさんは振り向かずに、片手だけ上げた。
そして、その手で、いきなり腹巻きを外しはじめた。
――そうだった。
番台からは、男湯の脱衣所が丸見えなのだ。
私は慌てて、天井を見上げた。
「なんでえ、天井に何かあんのか」
「な、なんでもないです!」
「減るもんじゃなし、見てえなら見ろ」
「見ません!」
男湯の脱衣所で、タツさんが、がっはっはと笑った。八十二歳の笑い声は、びっくりするほどよく響いた。
「ハルさんがよく言ってたぜ。番台はな、見ないふりして、全部見る場所だってよ」
見ないふりして、全部見る。
「年寄りが脱衣所で倒れてねえか。顔色の悪いやつはいねえか。財布を忘れた子どもはいねえか。そういうのをな、見ないふりして、全部見てたんだよ、ハルさんは」
タツさんは、手ぬぐいを肩にかけて、浴場のガラス戸を開けた。
「あんたも、そのうちわかるさ」
ぴしゃん、とガラス戸が閉まった。
私は、番台の上で、祖母の座布団に座り直した。
見ないふりして、全部見る。
その言葉を、胸の中で、何度か転がしてみた。
初日の客は、三十八人だった。
祖母の日誌の、半分にも届かない。
それでも、ひとり来るたびに、私はうれしかった。
キヨさんは開店十分後に来て、「やっぱり、ここの湯がいちばんだよ」と言いながら、番台に向かって手を合わせた。私にではなく、たぶん、祖母に。
夕方六時、ルミ子さんが来た。今日はばっちりお化粧をしていて、別人みたいにきれいだった。「ちなっちゃん、番台、似合うじゃない」とウインクして、女湯に消えた。
七時すぎ、保育園帰りの沙耶さんとひなたちゃん。
「ただいまー!」
ひなたちゃんは、のれんをくぐるなり、元気いっぱいに叫んだ。
「おばあちゃんがね、ここではね、ただいまっていうんだよって、いってたの」
私は、番台の上から、ひなたちゃんに手を振った。
「おかえり、ひなたちゃん」
スーツ姿の若いサラリーマンが、のれんをくぐりかけて、番台の私と目が合って、真っ赤になって固まる、という場面もあった。たぶん、祖母の代には、こういうことはなかったのだと思う。私は、できるだけ天井を見ることにした。
夜八時ごろ、番台の横に、すっと冷たいコップが置かれた。
麦茶だった。
見ると、煤で頬を黒くした葛城さんが、もう釜場へ戻っていくところだった。
何も言わずに。
閉店まぎわ、脱衣所に忘れた手ぬぐいを取りに戻ってきたキヨさんが、番台の前で足を止めた。
「千夏ちゃん」
「はい」
「今日、何人来たか、覚えてるかい」
「三十八人です」
「そのうち、名前がわかるのは」
私は、指を折って数えた。タツさん、キヨさん、ルミ子さん、沙耶さん、ひなたちゃん。商店街の八百屋のおかみさん。魚屋のご主人。
「……七人、です」
「明日は、八人にしな」
キヨさんは、にっと笑った。
「ハルちゃんはね、客の名前を、全部覚えてたよ。名前で『おかえり』って言われるとね、人間ってのは、また来たくなるもんなのさ」
そう言って、キヨさんは、のれんをくぐって帰っていった。
名前で、おかえり。
私は、番台の上で、今日来たお客さんの顔を、ひとりずつ思い浮かべた。
夜十一時。
最後のお客さんを見送って、のれんを下ろした。
それから、掃除。男湯の湯を抜いて、湯船をこすり、両方の洗い場を流し、脱衣所の床を拭く。二人がかりで、一時間近くかかった。
「先、入ってください」
男湯の掃除を終えた葛城さんが、言った。
「女湯の湯、少し残してあります。まだ温かいんで」
「え、でも、掃除……」
「明日の朝、流せばいいです。ハルさんも、そうしてました」
閉店後に、残り湯に入る。それも祖母の習慣だったらしい。
夜中の十二時半。
誰もいない女湯で、私は湯に浸かっていた。
体じゅうが痛い。足は棒みたいだし、腕は上がらないし、短く切った爪のあいだには、まだ薪の木屑が入っている。
でも、不思議と、気分は悪くなかった。
三十八人。
あのひとたちが、今夜は、あたたかい体で眠るのだ。
ぼんやりと壁の月を見上げていたとき。
壁の向こうで、ちゃぷん、と水音がした。
男湯だ。
男湯と女湯を仕切る壁は、天井まで届いていない。上のほうが、ぽっかりと開いている。だから、向こうの音が、そのまま聞こえてくる。
湯をかける音。ふう、という、長い息。
私は、湯の中で、身じろぎもできなくなった。
壁一枚。
壁一枚向こうに、あの人が、いる。
しばらく、湯の音だけがしていた。
それから。
「……湯加減、どうですか」
壁の向こうから、低い声が降ってきた。




