第4話 釜焚きの手
朝五時の釜場は、ひんやりしていた。
夏でも、日の出前のこのあたりは涼しい。コンクリートの床。煤で黒くなった壁。そして、部屋の真ん中に、どっしりと鎮座する鉄の釜。私の背丈より大きい。
「これが、月見湯の心臓です」
葛城さんが、釜の横腹をぽんと叩いた。
「ここで薪を燃やす。その熱で、釜の中の湯が沸く。沸いた湯を、ポンプで湯船に送る。それだけです」
「それだけ」
「それだけです。それを毎日、八時間」
それだけ、の重みが違う。
釜場の裏には、薪が山のように積んであった。薪といっても、きれいに割られたものではない。古い家を壊したときに出る柱や板――廃材だ。ところどころに、錆びた釘が刺さったままになっている。
「解体屋さんから、ただでもらってます。タツさんの昔のつてで」
「ただ」
「運んでもらう手間賃は、払います。その代わり、割るのはこっちの仕事です」
葛城さんは、軍手を私に放ってよこした。それから、壁にかかっていた鉈を手に取った。
鉈。
生まれて初めて、本物を見た。
「まず、見ててください」
葛城さんは、太い柱の切れ端を台の上に立てた。鉈を、軽く振り上げる。力を入れているようには見えなかった。
かこん、と乾いた音がして、柱がきれいに二つに割れた。
「……魔法?」
「木の目を読むんです。力じゃない」
木の目。ぜんぜんわからない。
私も、やってみた。
一回目、鉈が木の表面ではね返って、手がしびれた。
二回目、鉈が木に刺さって抜けなくなった。
三回目、葛城さんが「ちょっと、貸してください」と言って、私の後ろに回った。
大きな手が、鉈を握る私の手を、上から包んだ。
「肩の力、抜いて。振り下ろすんじゃなくて、落とす」
すぐ耳の後ろで、低い声がした。
Tシャツの袖から伸びた腕が、私の腕に沿っている。日に焼けて、筋が浮いて、ところどころに白いペンキの点がついた腕。
……見るな、私。
何を見ているんだ。三十五歳の、離婚したての女が、朝の五時に、年下の男の腕を。
「今です」
言われて、私は鉈を落とした。
かこん。
割れた。
「……割れた!」
「割れましたね」
葛城さんは、すっと手を離した。私の手の甲に、ほんの少し、彼の手のぬくもりが残った。
六時すぎ、釜場の戸口から、ぬっと顔がのぞいた。
タツさんだった。腹巻きに、ステテコ。朝の散歩の途中らしい。
「おう。やってるか」
タツさんは、私の割った薪の山を見下ろした。太いのや細いのがまじった、不格好な薪。
「……ひでえ割り方だな」
「すみません」
「謝るこたあねえ。最初はみんなそうだ。源さんだって、最初は鉈で自分の足を割りかけたんだからよ」
「えっ」
「ペンキ屋、ちゃんと教えてやれよ。ハルさんの孫に怪我させたら、俺がおめえを薪にするからな」
「……はい」
葛城さんは、真顔でうなずいた。
タツさんは、ふん、と鼻を鳴らして、散歩に戻っていった。去りぎわに、焚き口の火を、ちらりと、なつかしそうに見ていった。
薪割りのあとは、釜に火を入れる練習。それが終わると、浴場の掃除だった。
四か月も閉めていた浴場は、ひどいことになっていた。湯船の底にはうっすらと水垢、タイルの目地には黒いカビ、カランの金具は白く曇っている。
デッキブラシで湯船をこする。たわしで目地をこする。洗剤のにおいで頭がくらくらする。
しゃがんでカランを磨いていたとき、ぱきっ、と小さな音がした。
見ると、人さし指の爪のジェルネイルが、半分欠けていた。
ベージュピンクの、上品な色。夫の行きつけのサロンで、三週間ごとに塗り直していたものだ。
――爪は、女の名刺だよ。
夫の声が、耳の奥でよみがえった。
結婚して最初の年、私が自分で爪を塗っていたら、彼は笑ってそう言ったのだ。それから、彼が選んだサロンを予約してくれて、彼が選んだ色を塗るようになった。君にはこの色が似合うよ、と言われて。
家を出たあとも、なんとなく、そのサロンに通い続けていた。ほかのお店を探す気力がなかったのだ。
私は、掃除の手を止めて、二階に上がった。
祖母の鏡台の引き出しに、古い爪切りがあった。
ぱちん。ぱちん。
欠けたジェルごと、爪を短く切り落としていく。十本全部。
切り終えた指先を見る。不格好で、ところどころ色が残っていて、ちっとも上品じゃない。
でも、なんだか、手が軽くなった。
八年分の何かを、切り落とした気がした。
お昼は、祖母の台所を使わせてもらった。
炊飯器でご飯を炊いて、おにぎりを握る。具は梅と、おかかと、焼いた鮭。冷蔵庫にあった卵で卵焼き。それから、八百屋さんで買ったきゅうりを浅漬けにする。
卵焼きを焼きながら、少し迷った。
結婚してからずっと、私の卵焼きは出汁巻きだった。夫が、甘い卵焼きを嫌ったからだ。『子どもの弁当じゃないんだから』と言われて、それきり作らなくなった。
でも、ここは祖母の台所だ。
私は、砂糖の瓶に手を伸ばした。祖母の卵焼きは、砂糖がたっぷりの、ほとんどお菓子みたいな卵焼きだった。夏休みに、毎朝これを食べた。
お盆に載せて、浴場に運ぶ。
葛城さんは、乾いたばかりの洗い場のタイルに、あぐらをかいて座った。私も向かいに座る。タイルがひんやりして気持ちいい。
「いただきます」
葛城さんは、きちんと手を合わせてから、おにぎりにかぶりついた。
黙って食べる。
卵焼きを口に入れる。
黙って食べる。
二個目のおにぎり。三個目。
……何か、言ってほしい。
まずいならまずいでいい。甘すぎる、とか、塩が足りない、とか。夫なら、とっくに三つは指摘している。
沈黙に耐えられなくなって、私が口を開きかけたとき。
「……うまい」
葛城さんが、ぼそっと言った。
私は、固まった。
うまい。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに、胸の奥まで届くんだろう。
八年間。毎日ごはんを作って、毎日、何かを直された。味つけ、盛りつけ、品数、時間。うまいと言われたことは、たぶん、一度もなかった。そもそも、言ってもらえるものだということを忘れていた。
「どうかしましたか」
「いえっ、なんでもないです! あの、おかわり、ありますよ。おにぎり、まだ」
私は、早口でごまかした。鼻の奥がつんとしているのを、悟られたくなかった。
葛城さんは、四個目のおにぎりに手を伸ばしながら、ぽつりと言った。
「ハルさんの卵焼きと、同じ味がする」
「……祖母に、教わったので」
「そうですか」
それきり、彼はまた黙って食べた。
結局、おにぎりは六個なくなった。きゅうりの浅漬けだけが、なぜか、きれいに残っていた。
午後、湯船の掃除の続きをしていると、葛城さんが洗い場の真ん中に立って、壁を見上げていた。
色褪せた、海と月の絵。
彼は手のひらくらいの小さな紙に、鉛筆で何かを描きつけている。ちらりとのぞくと、壁の絵の写しだった。たった数本の線なのに、ちゃんと海と月に見える。
「描き直すんですよね、これ」
「冬至のあとです」
「……あとって。閉めたあとに描いたら、誰も見ないのに」
葛城さんは、鉛筆を止めた。
「見送るための絵も、あるんで」
それだけ言って、彼はまた手を動かしはじめた。
見送るための絵。
その言葉が、なぜか引っかかった。でも、そのときの私には、それが何なのか、まだよくわからなかった。
「それより」
葛城さんが、紙から顔を上げた。
「再開の告知、どうします」
「告知?」
「貼り紙とか。四か月閉めてたんで、みんな、もうやってないと思ってます」
そうか。開けても、誰も知らなければ来ない。
私は、少し考えた。
頭の中に、ぱっと絵が浮かんだ。のれんの絵。湯気の絵。それから、大きな字で『月見湯、帰ってきました』。
「……それなら、得意かも」
その日の夜、私は祖母の文机で、久しぶりにペンを握った。
画用紙に下書きをして、マジックで清書して、色鉛筆で色を塗る。湯気はふんわりと。のれんは藍色で。
気がついたら、夜中の一時になっていた。
楽しかった。
自分が何かを作って、楽しいと思ったのは、いったい何年ぶりだろう。




