第3話 冬至まで
「冬至、と申しますと……十二月の」
柴田さんの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「はい。十二月の、冬至です」
私は、ノートを抱きしめたまま言った。
「祖母は、冬至でこの店を閉めるつもりだったんです。最後に柚子湯をして。……それを、やらせてください。売るかどうかのお話は、そのあとで」
「なるほど、なるほど」
柴田さんは、さっと笑顔を立て直した。この人はきっと、笑顔を立て直すのが仕事なのだ。
「とりあえず、中を拝見してもよろしいですか」
断る理由もない。私は彼を、脱衣所から浴場へと案内した。
柴田さんは、天井を見上げ、壁をこんこんと叩き、床のタイルのひびを革靴の先でなぞった。そのたびに、手元のファイルに何かを書きこむ。
「築六十年。耐震のほうも、正直なところ……。建物自体には、ほぼ価値がないと申し上げざるをえません」
「はあ」
「一丁目の地権者さまは、すでに九割がたご同意いただいておりまして。こちらの角地が、いわば最後のピースなんです」
最後のピース。私の祖母の銭湯は、誰かのパズルの一片らしい。
「ご提示できる金額は、更地にした場合の評価で、八千万円ほどと考えております」
「はっ……」
変な声が出た。八千万。私の人生で、一度も口にしたことのない数字だ。
「失礼ですが、三森様は、銭湯のご経験は」
「ありません」
「……でしたら、なおさら。半年近く営業されるとなると、燃料代も、水道代も、修繕も。赤字が膨らむだけかと存じますが」
正論だった。たぶん、まったくの正論だった。
それでも私は、首を横に振った。
「それでも、やります」
柴田さんは、私の顔をしばらく見ていた。それから、ファイルをぱたんと閉じた。
「承知しました。上の者と相談いたします。ただ……冬至より先は、正直、お約束できかねますので」
「わかりました」
柴田さんは丁寧に頭を下げて、格子戸のほうへ向かった。出ていく直前、彼は振り返って、煙突を見上げた。
その目は、笑っていなかった。高さを測る目だった。
柴田さんが格子戸を開けたとたん、外から、人がなだれこんできた。
「うわっ」
正確には、なだれこみかけて、柴田さんとぶつかって、もみ合いになった。柴田さんは「し、失礼します」と言いながら、人垣をかき分けて逃げるように去っていった。
残ったのは、見覚えのある顔ぶれだった。
ステテコに腹巻き姿の、日に焼けたおじいさん。昨夜のキヨさん。大きなサングラスをかけた、派手なガウン姿の女の人。それから、保育園のバッグを肩にかけた若いお母さんと、その足にしがみつく小さな女の子。
「……聞いてたんですか」
「聞こえたんだよ」
腹巻きのおじいさん――タツさんが、ふんと鼻を鳴らした。辰巳辰三さん、八十二歳。祖母の日誌で、昨夜のぼせてひっくり返っていた人だ。
「開けるのかい?」
キヨさんが、私をまっすぐ見た。
私は、一度だけ深く息を吸った。
「冬至まで、やります。おばあちゃんが、そう決めてたから」
しん、とした。
それから、キヨさんが、ゆっくりと目を細めた。
「……ハルちゃんの孫だねえ」
昨夜とは、ぜんぜん違う声だった。
「素人に釜が焚けるかってんだ」
タツさんが、腕を組んで言った。
「薪だぞ、薪。ボタン押しゃあ沸くのとはわけが違う。あんた、鉈なんか握ったことあんのか」
「……ありません」
「ほれ見ろ」
「俺が教えます」
後ろから、声がした。
振り向くと、葛城さんが立っていた。手にパン屋の紙袋を提げている。朝ごはんを買いに出ていたらしい。
「あおちゃん!」
女の子が、お母さんの足から離れて駆けだした。葛城さんは紙袋を持ったまま、もう片方の腕で、ひょいと女の子を抱き上げた。
「ひなた。保育園、遅れるぞ」
「あおちゃんも、いっしょにいく?」
「行かない」
そう言いながら、葛城さんは笑っていた。
笑うんだ、この人。昨夜からずっと、能面みたいな顔しか見ていなかったから、少し驚いた。目尻がくしゃっとなって、急に年下らしく見える。
「ペンキ屋が言うなら、まあ、しょうがねえ」
タツさんが、しぶしぶといった顔で言った。
「ちなっちゃん、覚えてないでしょ、あたしのこと」
サングラスの女の人が、私の肩をぽんと叩いた。
「スナック『月うさぎ』のルミ子。あんたが小学生のころ、あたしまだ二十代でさ。ラムネおごってあげたじゃない」
「あっ……ルミ子さん」
覚えている。真っ赤な口紅の、きれいなお姉さん。今は口紅どころか、すっぴんだ。
「朝は人間の顔してないのよ。見ないで」
そう言って、ルミ子さんはサングラスを押し上げ……ずに、さらに深くかけ直した。
「あの、藤井です。藤井沙耶です」
若いお母さんが、遠慮がちに頭を下げた。
「うち、アパートのお風呂が壊れてて。大家さんが、なかなか直してくれなくて。月見湯さんが閉まってから、ずっと隣町まで、この子連れて歩いてたんです。だから……」
沙耶さんは、それ以上言わなかった。言わなくても、わかった。
祖母の日誌の客の数。百二人。八十八人。九十五人。その一人ひとりに、こういう事情があるのだ。
「冬至までだけど」
私は、ひなたちゃんを抱いた葛城さんのほうを見た。
「……よろしくお願いします」
葛城さんは、ひなたちゃんを下ろしてから、私のそばに来た。そして、ほかの人に聞こえないくらいの声で言った。
「ハルさんとの約束なんで。あなたのためじゃないです」
「わかってます」
わかってる。ちゃんと、わかってるから。
それでも、ほんの少しだけ、ほっとしてしまった自分がいた。
それからの一週間は、めまぐるしかった。
まず、保健所。銭湯を続けるには、相続した人間があらためて届け出をしなければならない。戸籍謄本、相続を証明する書類、施設の図面。窓口の人が「お一人で全部そろえてこられたんですか」と目を丸くした。
書類仕事は、得意だった。結婚前、小さな広告制作会社で広報をしていたころは、取材の段取りも、イベントの申請も、全部一人でやっていたのだ。
……忘れていた。自分が、そういうことのできる人間だったということを。
派遣の仕事は、ちょうど七月末で契約が切れる。マンスリーマンションも解約した。
引っ越しの荷物は、スーツケースが二つと、段ボールが三つ。
八年の結婚生活で、私のものと言えるのは、これだけだった。家具も家電も、服のほとんども、夫が「君に似合うよ」と選んで買ったものだから、置いてきた。
祖母の部屋は、二階の手前の六畳だ。茶箪笥と鏡台と、小さな文机。窓を開けると、すぐそこに煙突が見える。
茶箪笥の上に、お葬式で使った祖母の写真を置いた。少し怒ったような顔で、こちらをにらんでいる。祖母は写真が嫌いだった。
「おばあちゃん。しばらく、お世話になります」
手を合わせると、写真の祖母が「遅いよ」と言った気がした。
問題は、奥の部屋だった。
「壁を描くまでは、ここにいます」
段ボールを運び上げてくれたあとで、葛城さんは当然のように言った。
「ハルさんとの約束なんで」
「壁って……日誌には、冬至のあとって書いてありましたけど」
「だから、冬至のあとまでです」
「……つまり、それまでずっと?」
「部屋は別です」
「当たり前です!」
思わず大きな声が出た。葛城さんは、なぜ怒られたのかわからない、という顔で首をかしげた。
台所とトイレは共用。お風呂は――。
「お風呂は、どうしてたんですか」
「銭湯の上に住んで、家に風呂があると思いますか」
ないらしい。再開するまでは、隣町の銭湯に通うしかないそうだ。
「年下の男と同居!?」
その夜、電話の向こうで、恵が叫んだ。
佐倉恵。大学の同期で、弁護士。私の離婚を、ほとんどボランティアみたいな値段で引き受けてくれた恩人だ。
「同居じゃない。下宿人みたいなもの」
「何歳?」
「三十二」
「顔は?」
「……普通」
「うそね。間があった」
「ないってば」
「腕は?」
「なんで腕」
「大事でしょ、腕」
何が大事なのか、聞かないことにした。
ひとしきり騒いだあとで、恵は急に静かになった。
「千夏。銭湯やるの、本気?」
「冬至までだけどね」
「……そう」
少し間があって、恵は言った。
「いいと思う。あんた、声が戻ってる」
私は、何も言えなかった。
「で、買い手ってどこ?」
「再開発の組合だって。まとめ役みたいなところ」
「ふうん。後ろにどこのデベロッパーがいるか、聞いた?」
「……ううん」
「今度、聞いときなさい」
恵はそう言って、電話を切った。
布団に横になる。祖母の匂いの残る、薄い布団。窓の外で、煙突が月を隠している。
とん、とん。
壁が叩かれた。奥の部屋とのあいだの、薄い薄い壁だ。
「……起きてますか」
壁の向こうから、くぐもった声がした。
「起きてますけど」
「明日、五時に起きてください」
「ご、五時?」
「薪割りです」




