第2話 月見湯日誌
男が服を着るまで、私は脱衣所の隅で、壁とにらめっこをしていた。
壁には、色褪せたポスターが貼ってある。『ご入浴の前に、かけ湯をしましょう』。湯船につかる男の人のイラスト。……今それを見せないでほしい。
「もう、いいですよ」
振り向くと、男――葛城さんは、さっきのジーンズとTシャツ姿で、首にタオルをかけて立っていた。
大きい人だった。百八十センチは軽く超えている。濡れた髪が額に落ちて、そのすき間から、さっきと同じ愛想のない目がこちらを見下ろしている。
「ちょっと、待っててください」
そう言うと、葛城さんは勝手知ったる様子で廊下に出て、二階への階段を上がっていった。ぎし、ぎし、と古い段板が鳴る。
……二階?
祖母の住まいだった、二階?
私が呆然としているうちに、葛城さんは戻ってきた。手に、一冊の大学ノートを持っている。
表紙には、祖母の字でこう書いてあった。
『月見湯日誌 四十八』
「入院してるとき、預かりました」
葛城さんは、ノートを私に差し出した。
「千夏が来たら渡しとくれ、って」
「……どうして、病院で直接」
言ってから、しまった、と思った。
葛城さんは、表情を変えなかった。
「来なかったでしょう」
ノートを受け取る手が、震えた。
表紙の角がすり切れて、丸くなっている。祖母はこれを、毎日、番台で開いていたのだ。子どものころの記憶がよみがえる。番台の上で、老眼鏡を鼻にずらして、鉛筆をなめなめ、何かを書きつけていた祖母の横顔。
「……あの、煙突の煙は」
沈黙に耐えられなくて、私は聞いた。
「あなたが、毎月?」
「釜は、火を入れないと傷むんです」
葛城さんは、廊下の先の釜場のほうへ目をやった。
「鉄だから、錆びる。ハルさんに言われてました。あたしに何かあっても、月に一ぺんは焚いとくれ、って」
「それで、お風呂まで」
「沸かした湯を捨てるのも、もったいないんで」
淡々とした口調だった。でも、月に一度、閉まった銭湯の釜に火を入れて、たった一人で、色褪せた月の下の湯に浸かる――それが何のためなのか、わからないほど私は鈍くない。
あれは、この人なりのお墓参りなのだ。
「キヨさんが、幽霊だって言ってました」
「知ってます」
「……訂正しないんですか」
「ハルさんが帰ってきてるって思ってたほうが、キヨさん、元気が出るみたいなんで」
ぶっきらぼうな言い方なのに、なんだか、ずるいと思った。
「あなた、ここに住んでるんですか」
「東京で仕事があるときは、二階の奥の部屋を借りてました。ハルさんに」
「祖母に」
「七年くらい」
七年。
私が結婚していた八年と、ほとんど同じだけの時間、この人は祖母のそばにいた。
「今月も、あさってまでこっちで仕事なんで、泊めてもらうつもりでした。……でも、今はあなたの家だ。出ていけって言うなら、出ます」
出ていって、と言うべきだったのだと思う。他人の、しかも男の人が、亡くなった祖母の家に泊まっているなんて、普通じゃない。
でも、私の口から出たのは、別の言葉だった。
「……今夜は、いいです」
もう夜の十時半を回っていたし、この人を夜道に放り出す権利が自分にあるとは、どうしても思えなかったのだ。
葛城さんは、小さくうなずいた。
「毎週、見舞いに行ってました」
階段に足をかけたところで、背中を向けたまま、彼が言った。
「ハルさん、病室の窓から、ずっと入り口のほうを見てました」
息が、止まった。
「……ごめんなさい」
やっとのことで、それだけ言えた。
葛城さんは、階段の途中で足を止めた。振り向かずに、言った。
「俺に謝ることじゃないです」
ぎし、ぎし、と段板が鳴って、足音は二階へ消えていった。
番台に上がるのは、二十年以上ぶりだった。
男湯と女湯の脱衣所のあいだにある、一段高い小さな座敷。ここに座ると、両方の脱衣所が見渡せる。祖母の定位置だった。
すり切れた座布団に腰を下ろして、小さな電気スタンドをつける。男湯の脱衣所の明かりも消すと、銭湯の中は、私のまわりだけがぽつんと明るくなった。
ノートを開く。
祖母の字は、角ばっていて、少し右上がりだった。
『一月七日 晴れ 湯温四十三度 客百二人 七草。タツ、また長湯。のぼせて番台の前でひっくり返る。八十過ぎて何してんだか』
思わず、ふっと笑ってしまった。タツさん。辰巳辰三さん。毎日、開店前から並んでいたおじいさんだ。
『一月十九日 くもり 客八十八人 キヨ、入れ歯を脱衣所に忘れて帰る。翌朝取りにくる。「歯が待ってた」だと』
『二月三日 雪 客六十一人 節分。豆まき。蒼ちゃん来る。壁の青が褪せたと言う。そりゃあ四十年だもの。人も壁も褪せるよ』
ページをめくるたびに、祖母の声が聞こえる気がした。客の数。湯の温度。天気。誰がどうした、こうした。几帳面なのか、おしゃべりなのか、わからない日誌だった。
そして。
『二月十四日 晴れ 客九十五人 千夏から電話。元気そう。声がちょっと細い』
指が止まった。
『二月二十日 晴れ 客九十九人 千夏の誕生日。電話はなし。忙しいんだろう。三十五か。早いもんだ』
覚えている。
あの日、夫が予約したフレンチのお店で、私は祖母に電話をしようとした。お祝いのメッセージをもらっていたから、お礼を言いたかった。
――今日は、僕との日だろう?
夫は、笑ってそう言った。だから私は、スマホをバッグにしまった。あとでかけようと思って、そのまま忘れた。
ページをめくる。
三月に入ると、字が乱れはじめる。
『三月二日 胸が苦しい。早じまい』
そこで、日誌は途切れていた。
何ページか白紙が続いて――そのあとに、まるで別人みたいに震えた字が並んでいた。病院のベッドで書いたのだと、すぐにわかった。
『月見湯は、今年の冬至でしまいにする。もう決めた』
『最後は柚子湯。柚子は、いつもの農家さんに頼むこと』
『しまうときは、蒼ちゃんに壁を描き直してもらう。いちばんきれいな壁で見送りたい。代金はもう払ってある。蒼ちゃんがいらないと言っても、払ってある』
最後の一行に、祖母の顔が見えた気がした。ぴしゃりと言い切って、ふんと鼻を鳴らす顔。
『千夏には、無理に継がせない。あの子には、あの子の暮らしがある』
そして、最後のページ。
『千夏が来たら、一番風呂に入れてやっとくれ。あの子は昔から、一番風呂が好きだった』
その下に、鉛筆で小さく、まんまるの月が描いてあった。
視界がにじんで、もう字が読めなかった。
一番風呂。
子どものころ、開店前の、誰も入っていない湯船に、祖母は私を一番に入れてくれた。
――一番風呂はね、湯がいちばん尖ってるんだよ。ぴりっとするだろ。
熱くて、透明で、ほんとうにぴりっとした。私はそれが大好きで、夏休みのあいだじゅう、毎日、一番風呂をせがんだ。
祖母は、覚えていたのだ。
八十四歳の、最後の、震える手で。
私は番台の上で、ノートを胸に抱いて、声を殺して泣いた。
泣いて泣いて、たぶん、そのまま眠ってしまったのだと思う。
目が覚めたとき、高い窓から、白い朝の光が差しこんでいた。
体が痛い。番台の上で、丸まって寝ていたらしい。
肩に、何かがかかっていた。
薄いタオルケットだった。洗いざらしの、少しごわごわした生地。顔を近づけると、石けんのにおいと、それから、かすかにペンキのにおいがした。
……あの人だ。
二階の気配をうかがったけれど、物音はしない。もう出かけたのだろうか。
と、そのとき。
「ごめんくださーい」
表の格子戸が、とんとんと叩かれた。
壁の時計を見る。朝の九時。
「汐見町一丁目地区、再開発準備組合の、柴田と申します。本日、物件を拝見に伺うお約束で――」
来た。
私は番台から下りて、乱れた髪を手ぐしで直した。顔は、たぶんひどいことになっている。泣きはらした目。着替えてもいない、昨日のブラウス。
でも、不思議と、迷いはなかった。
ノートを胸に抱えたまま、格子戸の鍵を開ける。
朝の光の中に、紺色のスーツを着た、三十代くらいの男の人が立っていた。人のよさそうな笑顔。手には分厚いファイル。
「三森様でいらっしゃいますね。このたびは、まことにご愁傷さまで――」
「あの」
私は、彼の言葉をさえぎった。
自分でも、こんなにはっきりした声が出るとは思っていなかった。
「冬至まで、待ってもらえませんか」




