第1話 祖母の銭湯に、裸の男がいた
祖母の遺した銭湯で、知らない男が湯に浸かっていた。
……順番に話したほうがいいと思う。私自身、まだうまく呑みこめていないので。
七月十五日、夜の九時半。
派遣先の残業を終えた私は、駅から十五分の道を歩いていた。
川を渡ると、空気が変わる。ビルの明かりが急に減って、かわりに軒の低い家と、シャッターの下りた商店街があらわれる。どこかの窓から、ナイター中継の歓声が漏れてくる。湿った夜風に、蚊取り線香と、夏草と、川のにおい。
汐見町。祖母の町だ。
来るのは、四月のお葬式以来になる。
……いや、正直に言おう。お葬式の前に来たのも、三月に一度、病院へ寄ったきりだった。その前は、たぶん去年のお正月。電話でなら、ときどき話していた。月に一度か、もっと少なかったかもしれない。
祖母――三森ハルは、八十四歳まで、この町で銭湯をやっていた。
月見湯。
商店街を抜けた角に、その建物はある。お寺みたいに反り返った屋根――唐破風というのだと、子どものころ祖母に教わった――の下に、白い字で「月見湯」の看板。その奥に、夜空へまっすぐ伸びる煙突。
入り口の格子戸には、祖母の字の貼り紙が、日に焼けて残っていた。
『しばらく休ませていただきます 月見湯』
しばらく、が、もう四か月になる。そして、もう二度と開かない。
明日の朝、ここに不動産屋が来る。
私は、この銭湯を売るつもりだった。
「おや」
声がして、飛び上がりそうになった。
店の脇の縁台に、小さなおばあさんが座っていた。うちわを片手に、白い肌着一枚。暗がりに目が慣れると、見覚えのある顔だった。
「あんた、千夏ちゃんだろ。ハルちゃんとこの」
「……キヨさん」
小川キヨさん。月見湯の女湯の、主みたいな人だ。私が小学生のころから、すでにおばあさんだった。いったいいくつになるんだろう。
「葬式以来だねえ」
にこりともせずに言われて、私は「ご無沙汰してます」と頭を下げるしかなかった。
キヨさんの言葉にとげがあるのは、わかっていた。この町の人たちは、私が祖母の最期に間に合わなかったことを知っている。お葬式のとき、誰も口には出さなかったけれど、空気でわかった。
――ハルちゃんの孫は、とうとう来なかったんだって。
「売るんだってね、ここ」
「……どうして、それを」
「この町じゃね、隠しごとは三日ともたないよ」
キヨさんはうちわで、ぱたぱたと胸元をあおいだ。それから、くいっと顎で上を指した。
「それより、見てごらん」
つられて見上げる。
煙突から、白い煙がのぼっていた。
……え?
「月命日になるとね、出るんだよ」
「出るって」
「煙さ。毎月十五日の晩になると、閉まってるはずの月見湯の煙突から、煙が出る。五月も、六月もだよ。ハルちゃんが、あの世から釜を焚きに帰ってきてるのさ」
キヨさんは、ちっとも怖くなさそうな顔で言った。
「幽霊、ってことですか」
「ほかに何があるってんだい」
あるでしょう、いろいろ。火の不始末とか、不法侵入とか。
言いかけて、やめた。煙突を見上げるキヨさんの目が、少しだけ光って見えたから。
「入るんなら、ハルちゃんによろしく言っといておくれ」
キヨさんは、よっこらしょ、と縁台から立ち上がり、路地の奥へ帰っていった。
私は煙突を見上げたまま、しばらく動けなかった。
三十五歳。家を出て、三か月。離婚届を出して、ひと月。
祖母が死んだ夜、私は、夫の取引先のパーティーで笑っていた。
そのことは、まだ、うまく話せない。
祖母の家の鍵は、お葬式のあとから、ずっとバッグの内ポケットに入っていた。小さな招き猫のキーホルダーつき。小学生のとき、縁日の射的で取って、祖母にあげたものだ。
裏の勝手口に回る。鍵を差しこむと、少し引っかかってから、かちりと回った。
戸を開けた瞬間、においが押し寄せてきた。
木の燃えるにおい。湿った石けんのにおい。それから、お湯のにおい――としか言いようのない、あたたかくて、少し金気のある、懐かしいにおい。
小学生の夏休みは、毎年ここで過ごした。このにおいの中で眠って、このにおいの中で起きた。
鼻の奥が、つんとした。
……感傷にひたっている場合じゃない。
勝手口のすぐ横は、釜場だ。銭湯のお湯を沸かす、大きな鉄の釜がある場所。その焚き口の小窓から、オレンジ色の光が漏れていた。
火が、入っている。
幽霊が薪をくべるとは思えない。
私は、壁に立てかけてあったデッキブラシを両手で握りしめた。三十五にもなって、デッキブラシで武装する日が来るとは思わなかった。
足音を殺して、廊下を進む。母屋と浴場をつなぐ短い廊下の先に、男湯の脱衣所がある。そこにだけ、明かりがついていた。
脱衣所の籠のひとつに、服が脱ぎ捨ててあった。色の褪せたジーンズ。灰色のTシャツ。ジーンズの膝に、青や白の絵の具のようなものが点々とこびりついている。
男物だ。
そして、大きい。
心臓が、喉までせり上がってきた。警察。そうだ、まず警察に電話を――と思うのに、手はデッキブラシを握ったまま離れない。
ガラス戸の向こうは、湯気で白くかすんでいた。
その奥で、ちゃぷん、と水音がした。
私は息を止めて、ガラス戸を引いた。
むわっと、熱い湯気が顔にかかった。
懐かしいタイルの洗い場。並んだカラン。積み重なった黄色い桶。そして正面に、大きな湯船。湯船の上の壁いっぱいに、色褪せたペンキの絵が広がっている。夜の海と、その海から昇る大きな満月。月の色は、もうほとんど白に近い。
その月の下で。
男がひとり、湯に浸かっていた。
湯船のふちに両腕をかけて、頭をのけぞらせ、目を閉じている。濡れた黒い髪。日に焼けた首と肩。湯の中の体は、湯気でよく見えない。見えなくていい。
「――誰ですか!」
自分でも驚くほど裏返った声が出た。
男の目が、ゆっくりと開いた。
切れ長の、愛想のかけらもない目だった。その目が、デッキブラシを構えた私を上から下まで眺めて、ほんの少しだけ細くなった。
「……戸、閉めてもらえますか」
低い声だった。
「は?」
「湯気が逃げるんで」
……は?
「け、警察呼びますよ!」
「どうぞ」
男は湯の中で、首をこきりと鳴らした。
「でも、ハルさんの許可は、もらってますけど」
「祖母は――」
声が詰まった。
「祖母は、亡くなりました」
「知ってます」
男は、ちらりと壁の月を見上げた。それから、私に視線を戻した。
「……たぶん、あなたより、よく」
頭の中が、すっと冷えた。
何、この人。
何を知ってるっていうの。
言い返したいことは山ほどあったのに、ひとつも言葉にならなかった。だって、その通りかもしれないから。私は、祖母の最後の三週間を知らない。
「葛城です」
男が言った。
「葛城、蒼。ここの壁を描いてる――いや、描くはずだった者です」
「かつらぎ……あおい?」
その名前には、聞き覚えがあった。
去年の暮れの電話だ。祖母がうれしそうに言っていた。『今度ね、あおいちゃんが壁を見に来てくれるんだよ。あの子は腕がいいからね』。
私はてっきり、美大生の女の子か何かだと思っていた。祖母のところに出入りしている、かわいい孫娘みたいな子なんだろう、と。ほんの少し、やきもちを焼いたのも覚えている。
「あおいちゃんって……女の子じゃ」
「よく言われます」
男は、真顔のまま言った。
よく言われるんだ。
そう思った私の目の前で、男が湯船のふちに手をついた。
「出ます」
「えっ」
ざばあ、と湯が鳴った。
「ちょっ――待っ――!」
私は悲鳴を上げて、くるりと背を向けた。デッキブラシの柄がガラス戸にぶつかって、がらん、とすごい音を立てた。
見てない。
見てないから。肩から下は、ほとんど見てないから。
背中の向こうで、ぺたぺたと濡れた足音がした。タオルを使う音。私の耳はなぜか異様に冴えていて、そのひとつひとつを拾ってしまう。三十五にもなって、何をこんなにうろたえているんだろう。結婚までしていたのに。
「三森千夏さん、ですよね」
すぐ後ろで、声がした。
「……どうして、名前」
「ハルさんが、毎日言ってたんで」
毎日。
その一言が、胸のいちばん柔らかいところに刺さった。
「明日、不動産屋が来るんでしょう」
「どうしてそれを」
「キヨさんが、商店街じゅうに言いふらしてます」
この町じゃね、隠しごとは三日ともたないよ。
キヨさんの声が、頭の中でこだました。
「売るんですか、ここ」
私は、答えられなかった。
答えは決まっているはずだった。売る。それしかない。私には銭湯の経営なんてできないし、お金もないし、この町にはもう、私の居場所なんてない。
なのに、喉が動かなかった。
湯気の向こうで、男が小さく息を吐いた。
「……その前に、渡すものがあります」




