第9話:美玲、偽りの『怪我』に賭ける
「……作戦変更よ。元気だから走らされるの。なら、弱ればいいのよ」
私は事務所のデスクで、真っ白な包帯を足首にぐるぐると巻きつけながら、不敵に微笑んだ。
映画館での敗北――ロマンチックな余韻を「フォームの良し悪し」で上書きされ、深夜の新宿を競歩させられた屈辱は忘れない。
香奈はポテトチップスを齧りながら、冷めた目で私を見ていた。
「美玲、あんた……。ターゲットの庇護欲を煽るつもり? 王道だけど、相手は誠司よ? 死にかけのトナカイを見つけたマタギみたいな目で見られるのがオチじゃない?」
「失礼ね。動けない私を、彼が甲斐甲斐しく介抱する。……狭い室内、触れ合う肩。これこそが、動を封じられた二人の、静の聖域よ!」
私は「昨日の競歩で足首を挫いたみたい」と、殊勝なメッセージを誠司さんに送った。
*
十分後。
私のマンションのチャイムが、連打されるような勢いで鳴り響いた。
「美玲さん! 大丈夫ですか! 氷は!? 弾性包帯は!? 患部の挙上は済んでいますか!?」
扉を開けるなり、誠司さんがプロの救急隊員のような血相で飛び込んできた。
私はソファに横たわり、儚げな表情で彼を見上げる。
「……あ、誠司さん。ごめんなさい、わざわざ。ちょっと、痛みが引かなくて……」
「見せてください! ……ふむ、腫れは少ないようですが、関節の可動域を確認します」
誠司さんが私の足を手に取る。大きな、温かい掌。
これよ。この密着感。私は心の中でガッツポーズを決めた。
「……うふふ、誠司さん。私、しばらく動けそうにないわ。……今日は、隣でゆっくりお話ししてくれませんか?」
「何を言っているんですか、美玲さん!」
誠司さんが、ガバッと立ち上がった。瞳には、使命感という名の炎が燃え盛っている。
「安静にしているだけでは、筋ポンプ作用が弱まって下腿が浮腫み、心肺機能まで低下してしまいます! 怪我をしている時こそ、できるメニューがあるんです!」
「……え、いいのよ。座ってるから」
「ダメです! さあ、タオルを持ってきてください!『タオルギャザー』を開始します!」
……タオルギャザー?
それは、床に置いたタオルを足の指だけで手繰り寄せる、地味で、地道で、地獄のように疲れるリハビリの基礎だった。
「ほら、指先をしっかり使って! これが足底筋膜の強化に繋がるんです! 次は、座ったまま腹筋を追い込みましょう。足首を使わなくても、大腿四頭筋は殺せます!」
「殺さないで! 私の四頭筋を殺さないで!」
*
私がソファの上で、プルプルと震えながら地味なリハビリに励まされていた、その時。
「先輩! 美玲さんが負傷したと聞いて、プロテイン入りのゼリーを持ってきました!」
玄関から、これまた見覚えのある「野生の雌豹」ことハルカが乱入してきた。
彼女は私の足首の包帯を見るなり、鼻で笑った。
「甘い。圧迫が甘すぎます。これでは炎症が広がる。美玲さん、私が『競技復帰用』に巻き直してあげます。……先輩、キネシオテープありますか?」
「ハルカ、助かるよ! テーピングの技術は君の方が上だ」
「ちょっと、二人とも! 私を石像か何かにするつもり!?」
私はハルカの手によって、何重にも、ガチガチに足を固定された。
もはや足首どころか、膝下まで全く動かない。石膏で固められたような重圧感。
「よし。これで関節の固定は完璧です。……先輩。美玲さんの早期復帰のために、今から『低酸素マスクを装着しての座ったまま上半身トレーニング』のメニューを組みませんか?」
「いい案だ! 美玲さん、怪我はチャンスですよ! 弱った部位以外を徹底的に鍛え上げましょう!」
二人は、私の目の前で「いかに私を効率よく鍛え直すか」という軍議を熱く交わし始めた。
私は、ガチガチに固められた足を投げ出し、遠くを見つめる。
(……庇護欲。……介抱。……甘いムード。……どこ行ったんや、私のラブストーリー)
*
一時間後。
誠司さんとハルカが「明日のリハビリは、松葉杖を使っての斜懸垂ですね!」と爽やかに去っていった後。
私は、一人寂しくリビングに残された。
足は動かない。全身は変な汗でベタベタ。そして、明日もリハビリ(地獄)が予約されている。
(……もう嫌。……もう健康でいい。……普通に走らせて……!)
私は、こっそりと包帯を解こうとしたが、ハルカのテーピングが強固すぎて爪が折れそうになった。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:挫いた嘘で介抱を狙う(大失敗。リハビリのターゲットにされた)。
中目標:誠司の独占(ハルカが混ざって、もはや合宿所)。
(……香奈。……あんたの助言、二度と信じへんからな……!)
私は、動かない足を抱えて、冷めたプロテインゼリーを啜りながら、夜の静寂に呪いの言葉を吐いた。




