第10話:美玲、伝説の『母』に弟子入りする
「……外堀を埋める。これこそが、大人の恋愛における最終兵器よ」
私は、鏡の前で清楚なネイビーのワンピースを整えた。
偽りの怪我(リハビリ地獄)から劇的な回復を遂げた私に、誠司さんは「お祝いに、僕を育ててくれた『師匠』に会わせたい」と言い出した。
師匠。それは恩師か、あるいは――。
「実家よ。間違いないわ。誠司さん、ついに私を家族に紹介する気になったのね!」
香奈はポテトチップスを袋ごと流し込みながら、鼻で笑った。
「美玲、あんた……。誠司の『師匠』がどんな生き物か、想像ついてる? あの一族、DNAがプロテインでできてるのよ? 手土産に千疋屋のゼリーなんて持っていったら、糖質制限の講釈で三時間は足止めされるわよ」
「失礼ね。誠実な挨拶と上品な振る舞い。これで落とせない親なんていないわ」
私は、香奈の不吉な予言を無視して、誠司さんのエスコートで彼の実家へと向かった。
*
連れて行かれたのは、都心から少し離れた閑静な住宅街にある、古風な一軒家だった。
だが、門をくぐった瞬間に違和感に気づく。
庭には、飛び石の代わりにバランスボールが埋め込まれ、軒先からは風鈴ではなく、五キロのダンベルが吊るされている。
「……誠司さん。ここ、本当にご実家?」
「はい! 母さんが待っています。さあ、中へ!」
玄関を開けると、そこには背筋を定規のように伸ばした、一人の女性が立っていた。
誠司さんの母・加代子さん。六十代とは思えない肌のツヤと、タンクトップから覗く見事な三角筋。
「……あなたが、誠司が話していた『根性のある練習相手』ね」
「あ、初めまして。美玲と申します。本日はお招きいただき――」
「挨拶はいいわ。……ちょっと、そこを歩いてみて」
「えっ?」
加代子さんは、私の言葉を遮り、鋭い眼光で私の足を凝視した。
私は戸惑いながらも、廊下を数歩歩く。
「……骨盤が後傾しているわね。大臀筋が眠っているわ。その服、脱ぎなさい。可動域が確認できない」
「……は、はい!?」
「母さんの指導が受けられるなんて、美玲さんはラッキーだ! 母さんは元オリンピック候補の伝説的コーチなんですよ!」
誠司さんは横で、サンタクロースを待つ子供のような顔で喜んでいる。
違う。私は嫁の挨拶に来たのであって、門下生になりに来たわけじゃない!
*
十分後。
私は、ワンピースの裾を捲り上げ、加代子さんの指示で「廊下の雑巾掛け(往復五十回)」を命じられていた。
「いい、美玲。雑巾掛けは最高の体幹トレーニングよ! 腕で押すんじゃない、肩甲骨を下げて、腹圧で進みなさい!」
「……ひぃっ、……はぁ、……なんで、私が……!」
「声が小さい! 呼吸を止めないで!」
加代子さんの声は、誠司さんよりもさらに通りが良く、逃げ場がない。
私は汗だくになり、床に這いつくばりながら、必死に雑巾を動かす。
すると、加代子さんが私の耳元で、低く冷ややかな声を落とした。
「……あんた、嘘をついているわね」
心臓が止まるかと思った。
加代子さんは、雑巾を持つ私の手首を掴み、じっと私の目を見据えた。
「その手の動き、その目の配り方。……あんた、アスリートじゃないわ。……誠司を騙して、何が狙い?」
プロの正体がバレる。
『別れさせ屋』として、彼に近づいたことが。
私は恐怖で喉が引き攣ったが、反射的に言葉が溢れ出た。
「……騙してなんて、いません! 私は……ただ……あの人の背中に、追いつきたいだけなんです!」
半分は、仕事。
でも、半分は――ボルダリングで、サウナで、映画館で、そして坂道で。
私を置いていこうとする、あの真っ直ぐすぎる背中を、どうしても止めたかった。
加代子さんは、数秒間私を無言で見つめ、それからニヤリと不敵に笑った。
「……いい根性ね。気に入ったわ。誠司の隣を歩くなら、その程度の執着は必要よ」
「……え?」
「誠司! この子、素質があるわ。今日から私がメニューを組んであげる!」
「本当ですか、母さん! やったね、美玲さん!」
誠司さんは、私の肩を抱いて無邪気に喜んだ。
加代子さんは、キッチンからプロテインシェイカーを取り出し、秘伝の(?)配合でドリンクを作り始めた。
*
帰り際。
私は、加代子さんから『美玲専用・地獄の強化スケジュール表(一ヶ月分)』を渡された。
「美玲さん、母さんに認められるなんて最高だ! 次は僕たちのルーツである、実家の裏山の『山籠り』に行きましょう!」
「……山籠り……」
私は、ずっしりと重いスケジュール表を胸に抱き、遠くを見つめた。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:誠司の母への挨拶(成功。ただし弟子にされた)。
中目標:正体バレの回避(『執念』として認められたが、訓練強度が三倍になった)。
(……ラスボスが味方になったけど。……これ、ゴールが遠のいてない……!?)
私は、誠司さんに支えられながら、震える足で家路についた。
空に浮かぶ月が、加代子さんの鋭い眼光のように私を見下ろしていた。




