第11話:美玲、山籠り(サバイバル)で悟りを開く
「……電波がない。……Wi-Fiもない。……あるのは、杉の木と、私の絶望だけね」
私は、スマホの画面に表示された『圏外』の文字を見つめ、乾いた笑いをもらした。
加代子さん(最強の姑候補)から渡された『強化スケジュール』の第一項目。それは、誠司さんの実家が所有する裏山での『三泊四日・高地順応キャンプ』だった。
香奈は、出発前の私にこう言い残した。
「美玲、あそこの山はね、神隠しに遭うんじゃなくて『筋肉に隠される』のよ。生きて帰ってきたら、熊の肉でも奢ってあげるわ」
だが、私はプロだ。ピンチはチャンス。
吊り橋効果。閉鎖環境。そして、二人きりの夜。
都会の絵絵画館で失敗したなら、大自然の静寂の中で、私の本能的な色気を誠司さんに叩き込んでやるわ。
私は、防虫スプレーと、山小屋で着るための「あざといシルクのパジャマ」をザックの奥底に忍ばせ、山へと足を踏み入れた。
*
「……誠司さん。質問していいかしら」
「何でしょうか、美玲さん!」
「山小屋は? ログハウスは? せめて、雨風を凌げるプレハブはどこ?」
誠司さんは、標高八百メートルの切り立った崖の上で、爽やかに汗を拭った。
「何を言っているんですか。小屋なんて建てたら、野生の感覚が鈍ります。今日はこの『一人用テントを二つ繋げた特設ベースキャンプ』で寝ますよ!」
……思てたんと違う。
暖炉の前でブランデー、みたいなムードはどこへ行った。
「さあ美玲さん、日が暮れる前に食材の確保です! あそこの急斜面に生えている山菜を、トレイルランニングの要領で回収しましょう!」
「待って、……自給自足なの!? 私、パスタの用意とかしてきたんだけど!」
「山の神が与えてくれたもの以外を食べるなんて、筋肉への冒涜です! さあ、ダッシュ!」
私は、高級なアウトドアウェアを泥まみれにしながら、命がけでワラビを毟り取った。
*
夜。
パチパチとはぜる焚き火の音だけが、静寂を支配していた。
辺りは一寸先も見えない闇。文明の音は一切届かない。
私は、計画通り「あざといパジャマ」に着替え……ようとしたが、あまりの寒さに断念し、誠司さんから借りた極厚のフリースに身を包んでいた。
だが、チャンスは今だ。
「……誠司さん。……少し、怖いかも。……暗闇って、自分の鼓動がうるさくて」
私は、少しだけ震える声を出し、焚き火の隣に座る誠司さんに寄り添った。
肩が触れ合う。彼の体温が、フリースの上からでも伝わってくる。
誠司さんは、じっと火を見つめていたが、やがてゆっくりと私を自分の方へ引き寄せた。
(……来た。……ついに、野生の誠司さんが、私の弱さに……!)
「大丈夫ですよ、美玲さん。……僕が、火を絶やしません。……それにしても、美玲さんの体温、少し低すぎますね」
「え……?」
「末端冷え性だ。今すぐその場でマウンテンクライマー(腕立ての姿勢で足踏み)を五十回! 心拍数を上げて、深部体温を燃焼させるんだ! さあ、僕がカウントします!」
「上げなくていい! このまま抱きしめて、静かに燃焼させてえええ!」
*
その時だった。
テントの裏の茂みで、ガサガサッ!!という激しい音がした。
「……ッ!? 猪だ!」
誠司さんの顔色が、一瞬で『プロの狩人』に変わった。
彼は迷わず私を抱え上げると、驚異的な跳躍力で近くの大木の枝へと飛び移った。
「美玲さん、しっかり捕まって! 絶対に、離しませんから!」
木の上。狭い枝の上で、私は誠司さんの胸に完全に閉じ込められていた。
至近距離で重なる、力強い鼓動。
下では巨大な影が鼻息を荒くしているが、私の頭の中は別のパニックで一杯だった。
(……あかん。……これ、仕事抜きで落ちるやつや。……この腕、……この匂い、……反則すぎる……!)
誠司さんの瞳は、闇の中でも鋭く、私を守るという意志に満ち溢れていた。
その真っ直ぐな強さに、私の『プロの計算』は、山の霧のように跡形もなく消え去った。
*
翌朝。
私は、鳥のさえずりと共に、無意識に薪を割る音で目を覚ました。
「美玲さん、おはようございます! いいスイングです! 昨日の猪の恐怖が、アドレナリンに変わってフォームにキレが出ていますよ!」
誠司さんは、朝日を浴びながらスクワットをしていた。
「……。……誠司さん」
「はい?」
「……私、もう、筋肉も山も怖くないわ。……むしろ、この薪を割っている時が、一番『生きてる』って感じがする」
「素晴らしい悟りだ! 美玲さん、ついに山の神と対話しましたね!」
……違う。山の神じゃない。
あんたという『重力』に抗うのをやめたら、なんだか全部どうでもよくなっただけよ。
私は、昨日までの『別れさせ屋』としての自分を、割りたての薪と一緒に焚き火の中に投げ込んだ。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:山籠りでの密着(成功。ただし木の上)。
中目標:誠司の男気を確認(成功。美玲の理性が完全崩壊)。
(……香奈。……私、もう都会のラウンジには戻られへんかもしれん。……このまま誠司さんと、野生の夫婦として生きていく覚悟、決めかけてるわ……!)
私は、朝日に向かって斧を振り下ろした。
恋のサバイバルは、いよいよ最終局面へと加速していく。




