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逃げる幼馴染、追う脳筋一途男。その間に挟まった運動不足な私(※別れさせ屋)の受難  作者: 寝不足魔王


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12/12

第12話:美玲、下山(シャバ)の空気に戸惑う

「……空気が、薄いわ。……排気ガスの匂いがする。……ビルが、私を圧迫してくる」


 三泊四日の山籠りを終え、新宿の駅前に降り立った私は、コンクリートの照り返しに目を細めた。

 鏡を見るまでもない。顔には泥が薄く残り、爪の間には薪割りの木屑が詰まっている。だが、今の私にはかつてない「生命力フィジカル」が宿っていた。


「美玲さん、いい面構えになりましたね! 街に戻っても、その体幹を忘れないでください!」

「ええ。……誠司さん。私、今なら猪と並走して、追い越せる気がするわ」


 誠司さんは、満足げに私の肩を叩き、「忘れ物を事務所に届けてから合流します!」と風のように去っていった。


     *


「……あんた、誰よ。私の知ってる、計算高くて美しい『別れさせ屋』の美玲はどこへ行ったのよ!」


 いつもの高級ラウンジ。香奈は、椅子に座る代わりに「中腰のスクワット状態」で湧き水を啜る私を見て、絶叫した。


「香奈、うるさいわよ。……椅子に座ると、腸腰筋が緩む気がして落ち着かないの。……それより、報告よ。……愛とは、獲物を仕留める瞬間の集中力。……誠司さんの背中、猪より頼もしかったわ」


「惚気けてんじゃないわよ! あんた、プロとしての魂をどこに捨ててきたのよ!」


 香奈は泣き出しそうな顔で、テーブルの上に『別れさせ工作の成功報酬』である札束と、これまでの誠司さんの『調査資料(隠し撮り写真)』の束を叩きつけた。


「いい? これは仕事なのよ! あんたが誠司を落として、私の前からアイツを消し去る契約なの! 筋肉に脳まで溶かされてる場合じゃないわ!」


 札束。調査資料。

 都会の、冷たい『仕事』の現実。

 私は、その不吉な茶封筒を手に取った。その瞬間、野生の直感が警鐘を鳴らした。


(……アカン。……この気配、この足音……!)


     *


「美玲さん! これ、ザックの中に忘れていましたよ!」


 扉が勢いよく開き、誠司さんが現れた。

 最悪のタイミング。

 テーブルの上には、札束。そして、誠司さんの背後から撮影された、おびただしい数の「ランニング中のフォーム写真」が散乱している。


 私は反射的に、資料を体で隠そうとした。だが、遅かった。

 誠司さんの視線が、テーブルの上の写真に釘付けになる。


(……終わった。……私の『純愛(物理)』が、ただの『依頼された仕事』やと思われてしまう……!)


 さらに、誠司さんを追ってきたハルカまでが現れ、冷徹な一瞥を投げた。

「……美玲さん。あなたのフォームに迷いがあると思っていたけれど。……これ、どういう調査資料ですか? この角度、隠し撮りですよね?」


 静寂。

 ラウンジの贅沢な静寂が、私の死刑宣告のように感じられた。

 誠司さんが、ゆっくりと写真に手を伸ばす。私の心拍数は、12話目にして最大値を記録した。


(……逃げられへん。……誠司さん。……ごめんなさい、私……)


 誠司さんは、一枚の写真を手に取り、食い入るように見つめた。

 やがて、彼は震える声でポツリと言った。


「……美玲さん。……僕のランニングフォームを、こんなに多角的に、精密に研究してくれていたんですね……!」


「……え?」


「見てください、この後方四十五度からの接地の瞬間! そしてこの、坂道での骨盤の連動! ……僕を追い越すために、これほどまでの分析データを集めていたなんて。……美玲さん、君の向上心に、僕の広背筋が震えて止まりません!」


 誠司さんは、札束の入った封筒(※彼はそれをプロテインの詰め合わせか何かだと思っているらしい)と、写真を胸に抱きしめ、感動の涙を流した。


「……助かった。……いや、助かったけど、……そうなるんや」


 ハルカは「先輩、それは絶対に違います」と言いかけたが、誠司さんの「よーし! この分析結果を元に、今から五十キロウルトラマラソンの対策会議をしましょう!」という咆哮にかき消された。


「さあ美玲さん、代々木公園までダッシュです! 君のデータに応えるために、僕はもっと速くなる!」


「……。……誠司さん。私、シャバに戻って一時間も経ってないんだけど……!」


 結局、私は香奈の絶望した視線を背に受けながら、再び新宿の街を全力で駆け抜ける羽目になった。


 プロの別れさせ屋、美玲。

 今夜の戦績。

 小目標:正体バレの回避(誠司の天然シールドにより、奇跡のセーフ)。

 中目標:都会への帰還(物理的にさらに追い込まれた)。


(……香奈。……ごめん。……私、もうこの『重力』から逃げる気、さらさらないわ!)


 私は、誠司さんの隣で、アスファルトを力強く蹴り上げた。

 恋のウルトラマラソンは、まだ始まったばかりだ。


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