第8話:美玲、映画館(暗闇)に賭ける
「……勝てる。今夜こそ、私の土俵で完勝してやるわ」
鏡の前で、私は最高級の香水をうなじに忍ばせた。
連日のタイヤ引き、坂道ダッシュ、そしてライバル・ハルカの出現。私の生活は、いつの間にか泥臭い部活動のようになっていた。だが、忘れてはいけない。私は『別れさせ屋』のプロ、大人の女よ。
今回の戦場は、新宿のシネマコンプレックス。
ハルカが誠司さんを『スポーツ科学博物館』に誘おうとしているという情報を香奈から得た私は、先手を打って彼を『新作恋愛映画のレイトショー』に誘い出した。
作戦名は『サイレント・アプローチ』。
走れない、叫べない、そして暗い。
アスリートの武器をすべて封じ、私の吐息と残り香、そして物理的な距離感だけで彼をノックアウトする聖域よ。
*
上映開始。館内が暗転し、重低音のBGMが響き始める。
隣には、ポップコーンのバケツを膝に乗せた誠司さん。
私は、暗闇の中で映えるシルクのブラウスの襟元を少しだけ緩め、彼との距離をわずか数センチまで詰めた。
(……さあ、誠司さん。この密室で、私の熱量を感じなさい。筋肉なんて忘れて、愛に溺れるのよ)
スクリーンでは、雨の中で再会した恋人たちが、激しく抱き合うシーンが映し出される。
ムードは最高潮。私はそっと、ドリンクホルダーに置かれた彼の大きな手に、自分の指先を重ねようとした。
その時。
誠司さんの肩が、ピクリと震えた。
「(……美玲さん。今の、見ましたか?)」
耳元で、熱い吐息が囁かれた。
ついに来た。彼も私の誘惑に耐えかねて、愛の言葉を――。
「(……今のヒロインの走り方。……絶望的です。あんなに上体がブレていたら、追っ手から逃げ切れるはずがない!)」
「……は?」
私は、重ねようとした指先を虚空で静止させた。
スクリーンでは、追手から逃げるヒロインが、必死に雨の街を駆けている。
「(見てください、あの接地。かかとからドスンと落ちている。あれでは膝の靭帯を痛めるだけでなく、加速が死んでしまう……! もどかしい! 今すぐスクリーンの中に入って、フォームを矯正してあげたい……!)」
「(……静かにして。今は、命がけの愛の逃避行シーンよ)」
私は、歯を食いしばって囁き返した。
だが、誠司さんの「職業病」は止まらない。
ヒロインが転び、ヒーローが彼女を助け起こす感動のシーン。
「(……ああ! 立ち上がり方が遅い! 股関節のバネを使え! 大臀筋に力を込めるんだ!)」
誠司さんは、感動のあまりポップコーンを握りしめ、ボロボロとこぼしている。
違う。彼が流しているのは、愛への共感の涙じゃない。
あまりに効率の悪い「フォーム」への、憤りと悲しみの涙だ。
*
さらに最悪なことに、映画のクライマックス。
雨の坂道を、ヒロインが全力で駆け上がるシーン。
「(……っ! ……素晴らしい。……なんて果敢なピッチだ!)」
誠司さんが、ついに感極まったように声を漏らした。
「(雨の日の路面は滑りやすいのに、あんなに果敢にコーナーを攻めるなんて。……彼女は、本物のランナーだ。美玲さん、僕……感動しました!)」
(……私のシルクのブラウスも、最高級の香水も、スクリーンの中の『根性ある走り』に完敗したっていうの!?)
私は、自分の「大人の色香」作戦が、物理的なエネルギー保存の法則によって粉砕されたことを悟った。
*
上映終了。
ロマンチックな余韻に浸る観客たちの中で、誠司さんだけが超回復したアスリートのような目つきでロビーに現れた。
「いい刺激をもらいました、美玲さん! 映画館の椅子に二時間座っていたせいで、ハムストリングスが疼いています。今すぐ走りたくなってきた!」
「……。……誠司さん。私、ヒールなんだけど」
「大丈夫です、駅まで競歩(早歩き)で行きましょう! 今の映画のヒロインのように、骨盤を意識して歩けば、美玲さんの歩幅もあと十センチは伸びますよ!」
結局、深夜の新宿で、私は誠司さんに「正しい腕の振り方」をレクチャーされながら、猛スピードで駅まで競歩させられる羽目になった。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:暗闇での密着作戦(実行したが、解析の対象にされた)。
中目標:誠司の心を掴む(『走りの理解者』として好感度が上がったが、女としてはノーカウント)。
(……ハルカといい、映画のヒロインといい。……私のライバルは全員、『足が速い女』なの!?)
私は、震える足で自動改札を抜けながら、心の中で絶叫した。
次こそは。次こそは、絶対に「動かない」場所で、この男を止めてやる……!




