第7話:香奈、焦る(という名の特訓代行)
「……ちょっと、美玲。あんた、その顔どうしたのよ。ゾンビのオーディションでも受けるつもり?」
私の事務所に現れた香奈が、ソファでピクリとも動かない私を見て、失礼極まりない声を上げた。
私は、湿布の隙間から恨みがましい視線を送る。
「……ハルカよ。九条ハルカ。誠司さんの大学の後輩で、元実業団。……あの女、誠司さんと時速十五キロで愛を語り合ってるわ」
「ハルカ? ……あ! あの『走る精密機械』って呼ばれてた、誠司の信奉者!?」
香奈が、弾かれたように身を乗り出した。どうやら心当たりがあるらしい。
私は、死に体のまま続けた。
「そうよ。……あんた、私に誠司さんを押し付けたいんでしょ? でもね、あんなストイックな子が誠司さんとくっついたら、あんたの自由なんて一生来ないわよ。あの二人、結婚式のバージンロードも全力疾走するタイプよ?」
その瞬間、香奈の顔から血の気が引いた。
彼女の脳裏には、誠司とハルカに挟まれ、死ぬまでトライアスロンを強要される自分の未来図が浮かんだに違いない。
「……あかん。それは絶対にあかん! 美玲、あんたが負けたら、私の人生は終わるわ!」
「……分かってるなら、なんとかしなさいよ……」
「分かったわ。美玲、立ちなさい。……元短距離ランナーの私が、あんたを『誠司を抜き去る女』に改造してあげる!」
「……はぁ? なんで依頼主のあんたに特訓されなきゃいけないのよ!」
*
一時間後。私は、夜の競技場のトラックに立たされていた。
香奈は、いつの間にか着替えたジャージ姿で、手にはストップウォッチを握っている。
「いい、美玲。誠司やハルカみたいな長距離バカに、スタミナで勝とうなんて思っちゃダメ。女の武器は、一瞬の『爆発力』よ!」
「……爆発力? 私の肺が爆発しそうなんだけど」
「黙って走りなさい! 誠司の心が動く瞬間……それは、自分より速いものを見た時よ。一瞬でいい、アイツの視界から消えるスピードを見せつけるの!」
香奈の指導は、誠司のそれとは違った。
フォームの美しさ、地面を蹴る角度、そして「いかに相手を翻弄するか」という、元スプリンターらしい、そして性格の悪いアドバイス。
「(……なんで私が、仕事の依頼人に、仕事(誘惑)のための脚力を鍛えられてるのよ……)」
矛盾に頭が痛くなるが、香奈の必死さは本物だった。彼女もまた、自分の『自由』がかかっているのだ。
「はい、スタート! 腿を上げて! お尻を振らない! 美しく、かつ鋭く!」
夜の静寂を切り裂いて、私は走った。
誠司さんの隣に並びたい。あのハルカという女に、プロの意地を見せたい。
その一心で、私は夜のトラックを駆け抜ける。
*
「……いいぞ、二人とも! その加速、僕の広背筋が震えてるよ!」
突然、背後から聞き覚えのある、明るすぎる声が響いた。
振り返れば、そこには汗だくの誠司さんが、満面の笑みで立っていた。
「せ、誠司さん!? なんでここに!」
「ハルカとの練習が終わって通りかかったら、二人が仲良く特訓しているのが見えてね。香奈、美玲さんを導いてくれてありがとう! 友情の力だね!」
誠司さんは、感動したように私たちの肩を叩いた。
違う。友情じゃない。これは、あんたという名の『厄災』をなすりつけ合う、女たちの生存戦略だ。
「よし! 二人のやる気が最高潮なら、仕上げに……あそこの急坂で『三人並走ダッシュ』だ!」
「「……えっ」」
「香奈も逃げちゃダメだ。美玲さんの良きライバルとして、君も走るんだ! さあ、愛の坂道を駆け上がろう!」
「ちょっと待ちなさいよ誠司! 私は指導役で……ひぎゃあああ!」
誠司さんは、有無を言わさず私たちの腕を引き、競技場の外にある心臓破りの坂道へと連行した。
*
「……はぁ、はぁ……。……なんで、私が……走って……」
「……あんたが、……言い出したんでしょうが……!」
街灯の下、私と香奈は、並んで坂道を駆け上がっていた。
隣を走る誠司さんは、「いいぞ! 二人とも、最高のピッチだ!」と、夜の住宅街に響き渡る声で叫んでいる。
あまりに不条理。あまりに過酷。
けれど、必死に足を動かす香奈の横顔を見て、私はほんの一瞬だけ、奇妙な連帯感を感じていた。
(……プロとして、依頼人と仲良くするなんて最低やけど。……まあ、この『重力』を分かち合えるのは、世界中でこいつだけやしな)
「……香奈! あんた、遅れてるわよ!」
「……うるさいわね! あんたこそ、その太もも、震えてるじゃない!」
私たちは、罵り合いながら、頂上を目指して加速した。
誠司さんの「愛の号令」が、夜空にどこまでも高く響き渡っていた。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:香奈による特訓(成功。ただし物理的ダメージ大)。
中目標:誠司へのアピール(『仲良し』として認定されたが、恋愛対象への道は遠い)。
(……待ってなさいよ、誠司。……あんたと香奈を、まとめて私のペースに巻き込んでやるんだから!)
坂を登り切った先で見えた夜景は、酸欠のせいか、いつもより少しだけキラキラして見えた。




