第5話:誠司、止まる(という名の休息)
「……誠司さん。今日は、一歩も走りません。一ミリも登りません。一回もタイヤを引きません。いいですね?」
私は、湿布まみれの腕を十字に組み、目の前の大男に最後通牒を突きつけた。
連日の『地獄の合宿』により、私の身体は悲鳴を通り越して絶唱している。香奈にいたっては、今朝「私は貝になりたい」という謎のメッセージを残して音信不通だ。
「分かりました、美玲さん。……確かに、オーバーワークは筋肉の超回復を妨げます。今日は『静養』に専念しましょう」
誠司は意外にも、物分かりよく頷いた。
私は心の中で勝利のガッツポーズを決める。
(よっしゃ! ついに来たわ、大人の休息タイム。薄暗いシアターで映画を観るか、静かなカフェで読書……。これこそが、私が本来あるべき『別れさせ屋』の優雅な休日よ!)
*
「……誠司さん。質問していいかしら」
「何でしょうか、美玲さん」
「ここ、どこ?」
目の前には、荘厳な山門。線香の香り。そして、静寂。
私たちが立っていたのは、都心の喧騒から切り離された、古色蒼然とした禅寺だった。
「坐禅です。動かない休息。精神のオーバーホールですよ。さあ、行きましょう」
……思てたんと違う。
映画館のポップコーンの香りはどこへ行った。
私は、冷たい廊下を素足で歩かされ、板の間に正座させられた。
「雑念を払い、無になりなさい」
住職の低い声が響く。
周囲は静まり返り、風の音と鳥の声しか聞こえない。
私の隣では、誠司が微動だにせず、まるで彫刻のように美しい姿勢で目を閉じている。
(……静か。……静かすぎる。……足、痺れてきた。お腹空いた。昨日のパスタ、美味しかったな。……誠司さんの横顔、鼻筋が通ってて綺麗。まつ毛長いな。……あかん、雑念のオンパレードや!)
自分の煩悩の多さに絶望していると、不意に身体がふらついた。
その瞬間、住職が手にした『警策』という木の棒が、私の肩めがけて振り下ろされようとした。
(ひっ……叩かれる!?)
反射的に身をすくめた私の前に、すっと大きな影が割り込んだ。
「……住職。彼女は、僕より先に限界を超えています。僕が代わりに受けます」
誠司の声だった。彼は目を開けることなく、私の盾になるように背を差し出した。
――バシィィィィィン!!
静かな堂内に、凄まじい衝撃音が響き渡る。
だが、誠司は眉一つ動かさず、ただ静かにその衝撃を受け止めた。
(……誠司さん)
私のために。
プロとして男を騙し、利用しようとしている私なんかのために、彼は迷わずその痛みを引き受けた。
その背中の大きさに、私の胸の奥が、これまでのどんな全力疾走よりも激しく、痛いくらいに脈打った。
*
坐禅を終え、夕暮れの帰り道。
痺れた足で千鳥足の私を、誠司がそっと支えてくれている。
夕日に照らされた彼の横顔を見て、私はたまらず口を開いた。
「ねえ、誠司さん。なんで、あんなに真っ直ぐなの? 香奈に対しても、私に対しても……。正直、疲れへんの?」
誠司は少しだけ足を止め、遠くの空を見つめた。
「……昔、大事なものを見失ったことがあるんです。自分が立ち止まっていたせいで、追いかけられなかった。その後悔が、今の僕を作っています」
彼の声は、いつもの快活なトーンではなく、少しだけ寂しげだった。
「だから、今は目の前にいる人を、全力で追いかけたい。放っておけないんです。……美玲さんのことも」
誠司が、私をじっと見つめる。
その瞳には、私の『嘘』を見透かしているような、それでいてすべてを受け入れているような、圧倒的な包容力があった。
(……あかんわ。……これ、ホンマにあかんやつや)
プロの仮面が、ボロボロと崩れていく。
計算じゃない。仕事じゃない。
私は、ただの一人の女として、この不器用で、一途すぎて、筋肉だらけの男に――。
「誠司さん、私……」
告白。その言葉が、唇の端まで出かかった、その時。
「美玲さん! 精神が整いましたね!」
「……は?」
「雑念が消え、血管が拡張し、血流が最高潮に達している今こそ……インターバル走に最適です! さあ、駅まで競争しましょう! 負けたほうが今日の夕飯のプロテイン代を奢りです!」
誠司は、これ以上ないほどの爽やかな笑顔で、クラウチングスタートの構えをとった。
「……。……誠司さん」
「はい?」
「……あんたのその情緒、一回プロテインと一緒にシェイクして飲み干してやろうかあああ!」
結局、私は夕焼けの中を、全力で彼を追いかける羽目になった。
プロの別れさせ屋、美玲。
今夜の戦績。
小目標:精神の休息(成功したが、結局走った)。
中目標:誠司の過去に触れる(成功。胸キュン度120%)。
(……待ってなさいよ、誠司。……あんたのその真っ直ぐな背中、いつか必ず、私の愛で止めてみせるから!)
夕闇が迫る街に、私の叫び声と、誠司の「もっと腕を振って!」という楽しそうな声が溶けていった。




