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逃げる幼馴染、追う脳筋一途男。その間に挟まった運動不足な私(※別れさせ屋)の受難  作者: 寝不足魔王


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第2話:美玲、煮える(サウナ)

「昨日の私は、ただの酸欠。今日の私は、完全無欠のプロよ」


 鏡の前で、私は不敵に微笑んだ。

 前回の失態――ターゲットをお姫様抱っこさせて病院送りにされるという、別れさせ屋にあるまじき大失態を、私は「高度な接近戦」という名目で脳内処理した。ポジティブさは美貌を保つ秘訣である。


 今回の戦場は、誠司がトレーニング帰りに必ず立ち寄るという、下町の銭湯『極楽湯』。

 ここのサウナは、界隈のサウナーたちが「地獄の釜」と恐れる設定温度百度超えの超硬派な施設だという。


「香奈、情報をありがとう。あとの泥仕事は、このプロに任せなさい」

「……美玲、悪いことは言わないから、経口補水液を最低二本は持っていきなさいよ?」


 幼馴染の忠告を鼻で笑い、私は銭湯の暖簾をくぐった。


     *


 サウナ室の扉を開けた瞬間、熱風という名の暴力が全身を襲った。

 視界が歪む。肺の粘膜がチリリと焼ける音がした気がする。


(……何これ。火事? 火事現場なの?)


 だが、プロは動じない。

 最上段。そこに、彫刻のような肉体を晒して泰然と座る誠司がいた。

 滴る汗が、彼の浮き出た腹筋シックスパックをなぞって落ちていく。その光景は、控えめに言ってルーブル美術館に展示すべき芸術品だった。


(よし。いくわよ)


 私はあえて誠司の隣、肩が触れ合うかどうかの距離に腰を下ろした。

 作戦は『蒸気の中の聖域』。

 熱気に耐えかねて、潤んだ瞳で彼を見つめ、バスタオルから覗く鎖骨を強調しながら「……少し、暑すぎませんか?」と囁く。

 男なら、その吐息と香りに理性を焼かれるはずだ。


 私は計算通り、上気した顔で彼を見た。


「誠司、さん……。ここ、……すごい、熱気、ですね……」


 甘い声。完璧な角度。

 誠司が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳には、私への情熱が――。


「美玲さん! 口呼吸はいけません!」

「……は?」

「ここは百度を超えています。口で吸うと肺を痛める。鼻で吸って、ゆっくり吐くんだ。ほら、スー、ハー!」


 誠司が私の目の前で、全力の深呼吸を披露し始めた。

 違う。私が求めているのは、呼吸法のレクチャーじゃない。


「……いえ、そうじゃなくて。私、ちょっと、……のぼせちゃった、みたいで……」


 私はわざとらしく、彼の肩に頭を預けようと体を傾けた。

 柔らかな肌が、彼の硬い二の腕に触れる。これよ。この接触が、男を――。


「いけない! それは熱中症の初期症状だ! すぐに出ましょう!」


 ――ガシィッ!


 色っぽく寄りかかるはずが、万力のような力で両脇を抱え上げられた。

 

(ちょっと待て。この男、ムードという言葉を母親の腹の中に置いてきたの!?)


「誠司さん、下ろして! 自分で歩けるから、フガッ、アブッ(熱い風が口に入る)!」

「喋っちゃダメだ、酸素が足りなくなる! 水風呂への最短ルートを確保します!」


 誠司は私を小脇に抱え(ラグビーボールのような扱いである)、サウナ室を飛び出した。

 そのままの勢いで、彼は私を水風呂の縁に座らせた。


「いいですか、まずは足先から。次に手。そして……一気に!」

「ちょ、まっ……ひぎゃあああああああ!?」


 背中を押された。

 灼熱から、一転して氷の世界へ。

 あまりの温度差に、私の心臓が「いい加減にしろ!」と抗議のビートを刻む。


「……ぷはっ! し、死ぬ……殺される……!」

「大丈夫、僕がついてます! さあ、手足の先がピリピリしてきたら、それが『整い』のサインですよ!」


 爽やかな笑顔で、誠司が水風呂の横で仁王立ちしている。

 整う? 冗談じゃない。私の「女の武器」としてのプライドが、今まさにバラバラに分解されていく音が聞こえる。


     *


 十分後。

 私は脱衣所のベンチで、真っ白な灰になっていた。

 目の焦点が合わない。髪はボサボサ。完璧なメイクは、地獄の釜で完全に消滅した。


「美玲さん。お疲れ様でした」


 カラン、と小気味よい音がした。

 誠司が、キンキンに冷えた瓶のコーヒー牛乳を私の頬に当てた。


「……あ。……誠司、さん」

「いい汗でしたね。美玲さんがあんなに根性ある人だとは思いませんでした。見直しましたよ」


 彼は隣に座り、自分の牛乳を一気に飲み干した。

 逞しい喉仏が大きく上下する。その無防備で野生的な色気に、私の心臓がまた、サウナとは違う理由で跳ねた。


(……根性、か。そんなもん、プロの評価に一番いらん項目やのに)


 私は渡された牛乳のキャップを開け、一口飲んだ。

 甘い。五臓六腑に染み渡る。


「あの。誠司さん」

「はい?」

「……次は、もう少し、……静かなところで会いませんか?」

「そうですね! じゃあ、次は低酸素トレーニングができるジムなんてどうでしょう。静かですよ」


 私は、返ってきた返事を無視して、牛乳を飲み干した。


(この男……ホンマに手強い。でも……)


 夕暮れの中、銭湯から出ていく彼の大きな背中を眺めながら、私は唇を噛んだ。

 その背中を、いつか「走って」ではなく「抱きしめて」追い越してやる。


 私の『別れさせ屋』としての戦いは、まだ一歩もスタートラインを越えていない。


(……とりあえず、帰ったら香奈を殴ろう。設定温度、聞いてたんと違うわ)


 私は震える足で、夜の街へと踏み出した。


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