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逃げる幼馴染、追う脳筋一途男。その間に挟まった運動不足な私(※別れさせ屋)の受難  作者: 寝不足魔王


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第1話:美玲、走る(酸欠)

「愛なんて、ただの脳内物質のバグよ」


 都心の高級ホテルのラウンジ。美玲はクリスタルのグラスを傾けながら、冷ややかに微笑んだ。


 私の職業は『別れさせ屋』。数多のクズ男をその気にさせ、依頼主が望む「円満な破局」を演出するプロだ。ターゲットを落とすのは、チェスの詰めろをかけるより簡単。計算、心理学、そして少しの演出。それだけで男はみんな、私の手のひらで踊りだす。


 そんな私の前に、今回の依頼主である幼馴染の香奈が、幽霊のような顔で座っていた。


「美玲……助けて。もう、限界なの」

「落ち着きなさい、香奈。ただの恋人同士の倦怠期でしょ?」

「違うの! 誠司の愛は、倦怠期なんて生温いもんじゃないわ。あれは……あれは、重力よ! 地球規模の質量で私を捕まえて離さないの!」


 香奈の震える手を見て、私は内心で鼻で笑った。誠司。確か、香奈の幼馴染で元陸上部の中距離ランナーだった男だ。


「分かったわ。その『重すぎる愛』、私が綺麗に引き剥がしてあげる。三日で作戦を立てて、一週間で彼に私を追わせるわ」


 それが、私のプロとしての「最後の大口」になるとも知らずに。


     *


 翌朝。私は、誠司が日課にしているというジョギングコースの公園にいた。


 今日の装備は完璧だ。少し乱したまとめ髪に、肌馴染みの良い淡いピンクのスポーツウェア。計算し尽くされた「不慣れなジョギングを頑張る可憐な女性」を演出し、彼の前で足首を捻る……というシナリオだ。


 あ、来た。


 前方から走ってくる長身の男。誠司だ。

 私はハンカチを指先に挟み、絶妙なタイミングで足元に落とす準備をする。


 ――が。


「……はよッ!?」


 突風が吹いた。

 誠司は、私が想定していた「ジョギング」の速度ではなかった。あれは、獲物を追う猛獣のそれだ。

 しかも、その前方には――。


「待ってってば誠司! 私、今日はヒールなのよ!」

「どうしたんだい香奈! ピッチが落ちてるよ。もっと体幹を意識して!」


 全力疾走で逃げる香奈と、涼しい顔で並走する誠司が、私の目の前を一瞬で通り過ぎていった。

 ハンカチを出す暇さえない。風圧で私の前髪が虚しく踊る。


「……プロのプライドにかけて、見失うわけにはいかないわ」


 私はヒールを脱ぎ捨て、裸足同然で走り出した。

 大丈夫、計算は合っている。彼の心理的隙間に滑り込めばいいだけ。

 ところが。


「はぁ、はぁ……ッ! ちょっ……待っ……!」


 三分。私の都会育ちの肺が悲鳴を上げたのは、走り始めてたった三分後だった。

 心臓が喉から飛び出しそうだ。肺が焼ける。視界がチカチカする。

 プロの恋愛心理術? ミラーリング? そんな高等戦術を考える余裕なんて、1ミリも残っていない。


「(あかん……死ぬ。これ、ホンマに死ぬ……!)」


 私は街路樹の根元に膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。

 泥を舐めるような思いで酸素を求める私の視界に、一対のランニングシューズが現れる。


「……大丈夫ですか!?」


 誠司だった。彼は香奈を追うのをやめ、私を覗き込んでいた。

 チャンス。今こそ、潤んだ瞳で彼を見上げ、「少し気分が悪くて……」と囁く場面だ。


「あ、……あ、が……ぁ……」


 出たのは、可愛げのない喘鳴ぜんめいだった。酸欠で顔面は土気色。

 誠司は目を見開いた。


「顔色がひどい! チアノーゼだ。脈拍も異常に速い。……安静にしてちゃダメだ、すぐに運びます!」

「い……いいの……自分で……」

「遠慮しないで! 救急車を待つより、僕が走ったほうが速い!」


 ――ひょい、と。


 世界が浮いた。

 誠司の逞しい腕が、私の膝裏と背中を支えていた。いわゆるお姫様抱っこ。

 本来なら、ここで「なんて逞しいの」とときめく演技をするはずだった。


 けれど、現実は違った。

 誠司の体は、岩のように硬く、そして温かい。

 密着した胸板から、力強い鼓動が伝わってくる。微かに香る、清潔な石鹸と汗の匂い。


「しっかり捕まっていてください。加速しますよ!」


 彼は私を抱えたまま、爆走を開始した。

 流れる景色。耳を打つ風の音。

 私の脳は、極度の酸欠と、誠司の圧倒的な身体能力フィジカルによる揺さぶりで、完全にバグを起こした。


 ドキドキする。

 いや、これは心不全一歩手前の動悸だ。分かっている。

 でも、彼の腕の中で揺られているうちに、脳内麻薬エンドルフィンがドバドバと溢れ出していく。


 見上げた誠司の横顔。真っ直ぐな瞳。

 不意に、彼が私を見て、安心させるように微笑んだ。


「……大丈夫。僕がついてますから」


 その瞬間、私の胸の中で、何かが「ピキーン!」と音を立てて砕け散った。


「(あかん……。……惚れてもうた)」


 別れさせるターゲット。依頼主の幼馴染。筋肉バカ。

 そんなレッテルは、どうでもよくなった。

 この酸素が薄い世界で、私の心臓を動かしているのは、彼という「重力」だけだ。


 意識が遠のく中、私は誓った。

 この男、私が絶対に奪略おとしたる……!


 ――翌日。

 美玲の仕事場には、全身筋肉痛でプルプルと震えながら、スマホで『最強の厚底ランニングシューズ』を検索する「プロ」の姿があった。


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