第五十五話 海に行くその前に⋯⋯
お風呂から上がると、すぐに髪を乾かし、僕は急いで自分の部屋に戻った。いつもなら誰もいない僕の部屋に、今日は人の気配がする。
高鳴る鼓動を抑えるために、一度胸を叩き意を決して扉を開けた瞬間。ベッドの上で毛布もかけず、丸まって寝ている熊の姿が飛び込んでくる。
ただ、ただ尊い⋯⋯
僕は立花さんに近寄り、起こさないようにと丁寧に毛布をかけてあげる。そして、敷かれている布団に胡座をかいて、立花さんを見つめた⋯⋯
僕と立花さんの、一度狂い始めた歯車を、元に戻すのは難しいだろう⋯⋯でもそれって結局のところ立花さんの気持ちに甘えて、何もしなかった僕が悪い⋯⋯
いや、僕は逃げる言い訳が欲しかっただけなのかもしれない。色々な事から逃げて、なにとも向き合わなかった報いなのかもしれない⋯⋯
この胸に抱いた淡い気持ちも、少しでも長い間そばにいれればという淡い期待も⋯⋯全て仕舞い込んで無かった事にしよう。
そして僕は、そのまま枕に倒れ込んで、目を瞑り明日の事を考える。海⋯⋯生まれてこの方一度も行った事がない⋯⋯行こうと思えば行けたはずなのに、行く理由が見つけられなかった⋯⋯なんか全てが言い訳に思える、本当に自分自身が嫌になる。
僕はそのまま深い眠りについてしまった。
────『チュンチュンッ⋯⋯』カーテンの隙間から差し込む陽の光が頬を撫でると、雀の小気味の良い囀りで僕は目を覚ました。
半身を起こしてベッドを見上げると、立花さんの姿はもうなくて、悪い夢⋯⋯違うか、とてもいい夢でも見てたんじゃないか?と思って背伸びをした。
『ガチャリ』と部屋の扉が開き、「二階堂くん起きるの遅すぎ、海行くんだから40秒で支度しな」と立花さんが言って、満面の笑みを浮かべながら僕の足下に座った。
「遅いって、今何時なんですか?」と僕が目を擦りながら尋ねると「六時」と返事が返ってくる。
「は、早過ぎます⋯⋯朝ごはんとかはどうするんですか?」
「海で食べればいいじゃん?」と立花さんが当たり前のように言う。
それは世の普通なのだろうか?僕は「とりあえず準備してきます」と言ってその場を後にした。
洗面所に着くなり冷水で顔を洗って、寝惚け顔をシャキッとさせる。次いで歯を磨いて、立花さんに選んでもらった一張羅のパーカーと制服に着替えて準備完了。
僕は急いで部屋に戻り「お待たせしました」と扉を開けた瞬間に言い放つと。
「ねぇ二階堂くん、寝癖のまま行くの?それになんで制服?パーカー暑くない?」と言って、僕を細い目で見上げる。
「ま、まずいですか?髪なら濡らしてくれば直せますけど⋯⋯制服は⋯⋯立花さんに選んでもらったパーカーに合わせやすかったので⋯⋯それにまだ梅雨明け前だから暑くは無いと思います」と僕が言うと。
「ふ、ふ〜〜ん⋯⋯ま、いっか、ここ座って」と立花さんが、床を二回叩いた。
僕はなんで座らされるのだろう?と疑問に思いながら、渋々立花さんの目の前に座る。
すると、立花さんが学生鞄の中に手を突っ込んで、紫色の容器を取り出した。
「た、立花さんそれなんですか?」と僕が恐る恐る尋ねると、「ワックスだよ、知らないの?」と言いながら、それを人差し指で掬うと、掌に広げて僕の髪をクシャクシャにしていく。
僕はいったい何をされているのだろうか?目の前で立花さんが中腰になって⋯⋯銀髪が、胸が⋯⋯
「二階堂くん、私も着替えたいから家付き合ってよ」と唐突に言われて「ひひっ」と答えると。
「二階堂くん噛んだ?」と立花さんに訊かれて⋯⋯
「噛みまみた」とわざと噛んでみる。
⋯⋯⋯⋯
「まぁいいや、髪のセットも終わったし家に行こ」と立花さんが、何事も無かったかのように言う。
大事故なんですけど⋯⋯死にたい⋯⋯
僕は肩を落とし「はい⋯⋯」と一言返事をして、立花さんの家に向かった。
────「二階堂くん、ちょっとここで待ってて」そう立花さんに言われて、僕は立花さんの家の前で待つ事にした。
待ってる間とくにやる事もなかったので、立花さんの家を眺めてみる。どこかお嬢様気質があったから、僕は勝手に豪邸に住んでいるんじゃないか?と想像していたのだけど⋯⋯ごく普通の二階建ての一軒家だった。
⋯⋯それよりも、これは非常にまずい状況なのでは?と僕は考える。普通に考えて、一晩帰ってこなかった娘が朝帰りしてきたうえに、玄関前で男を待たせてるって⋯⋯どう考えてもアウトでしょ?
そう思って、ゆーっくりと身を屈めようとした時。
「あー!!姉ちゃんの想い人だ」と言われて、体がビクッと反応する。
僕が恐る恐る振り返ると、そこには金髪マッシュの眉目秀麗な男の人が佇んでいた。
「おはようございます!びっくりさせてすいません。立花碧斗、立花蒼の弟です、碧斗って呼んで下さい!」と手を差し出されたので、僕がゆっくりと手を差し出そうとしたその途中で手を握られ『ブンッブン』と握手をされた。
そして「じゃ俺ランニング行くんで」と言って、颯爽と駆け出して行った。
⋯⋯⋯⋯弟?
僕が身を屈める途中で固まっていると。
「娘はやらん!」と聞こえて、更に振り返ると、厳格そうな男性が塀の上から僕を見下ろしていた。
「え?あっ⋯⋯?えっ?」と僕が喉元で言葉を詰まらせていると。
「なんだ、聞こえなかったのか?ならもう一度言うぞ。娘はや、ら、ん」と満面の笑みで反芻した。
「え?お、お義父さんですか?」と僕が尋ねると。
「お前にお義父さんと呼ばれる筋合いは無い。じゃっ」と至極嬉しそうな顔をして、手を挙げて去って行った⋯⋯
う〜ん?と僕はそのままへたり込んで、目の前で起こった事を整理しようと試みるが
、じょ、情報量が多すぎる⋯⋯そう思って項垂れる。
「二階堂くんお待たせ、てかそんな所にしゃがみ込んでどうしたの?」と聞こえて見上げると⋯⋯
立花さんは、黒いキャップを少し深めにかぶって、僕と同じ青いパーカーを身に纏い、黒い短めのスカートを履いていた。
「なっ!ペアルックじゃないですか!?」
立花さんが舌をペロッと出して、キャップのつばを触り「じゃ行こっか」と行って僕の腕を引き上げた。
「い、行きましょう⋯⋯それで、その手にもっている物はなんですか」と僕が訊くと、それを僕の目の前に差し出して「レジャーシートはマストでしょー?あとご飯!」と言って、凄く嬉しそうに僕を引っ張って行く。
海に行ったことの無い僕にはわからないが、まぁマストなのか?と思う事にして、僕達は海へと向かった。




