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モンテウッドの北門と呼ばれている場所。そこは門とは呼ばれているものの決して堅牢ではなく、"ようこそモンテウッドへ"といつ描かれたかも分からない大きな看板が掲げられているだけだった。既にペンキも部分的には剥がれ落ちており、むき出しになった木材と合わせて読み取らないと字として認識できない状態ではあったが。
モンテウッド周辺は乾燥し森や川などもあまりないからか、魔獣も少ない。その為、防衛設備という側面よりも、訪れてくれた人を歓迎するという側面が強調されている結果であった。
その北門からの道を、一人の少年がトボトボと歩いていた。先刻、サラに対して恨み言を呟いた少年である。
少年はどうしようもない苛立ちを抱えており、少し頭を冷やす為に街を出たのだ。上述のように魔物などはほとんど出ない街である。危機意識などもあまりなく、故に一人になりたい時になど、少年は良く一人で出歩いていた。
そう、少年はディラーグが言っていた様に、商人の見習いとして頼み込んで働かせてもらっている身の上である。それは決して楽ではない。今この街にいるのも本来は不本意である。本当はもっと華々しい所で働きたかったのに、それを選べるだけの自由が少年に無かったのだ。"働かせてもらってるだけでもありがたいと思え"と実際に言われ、この街にある小さな支店で働く毎日だ。
不満を忘れさせてくれるような忙しい日々であればまた別だったのかもしれない。が、この寂れた街では暇な事も多く、元々頭に思い描いていた理想の生き方とのギャップに、少年は日々不満を募らせていた。
そこで出会ったのがサラである。彼女は笑顔だった。楽し気に笑っていた。
――それが、少年にはどうしても許せなかった。
(どうしてお前が笑っていて、俺が苦労している側なんだ!)
言葉にすればそういう事になる。端的に言えばサラには直接関係しない、ただの不満のはけ口にしているだけとも言える。だが、他に向かう先の無かった心の闇の部分が、サラという出口を見つけて一気に噴出していった。
その結果の一端として出てしまったのがサラへの言葉である。
これでも少年は商人として働いている為、最低限のマナーは叩き込まれていた。故に自分がサラに対して放った言葉は言ってはならなかったものだという自覚は無いではない。
(だけど、しかたないじゃないか!)
しかしその自覚が少年に反省を促してくれる訳でもなく。少年はただ自分を冷静にさせるためだけに一人になる事を目的に、北門を出たのだった。
その頭の中は明確な言葉にはなっていない。だが、それでも自分の中のストレスを他人にぶつけないようにしようと意図での行動ではあった。
と、そんな少年の鼻先に、臭うものがある事に気が付いた。
(なんだ……? 何の臭いだ?)
家庭内の生ごみの様な臭いだと少年は思った。が、ここはゴミ捨て場では無く、相変わらず赤茶けた乾燥した風景が続く土地である。ただ車の往来ができるように整えられた道の脇には、剥き出しの大きな岩もゴロゴロとしており、一歩道を外れると視界が良いとは言えなかった。
疑問を覚えつつ少年は周りを見渡す。そして鼻で臭いの元を探すと、少年はある岩の方から漂ってくる臭いだと言う事に気がついた。
何かしら腐ったゴミでも誰かが捨てたのだろうか、と思いつつ少年がその岩の影を覗こうとした時だった。
逆に岩の影から現れた人影があった。
なんだ人間か、と思いその顔を見た少年は、次の瞬間には叫び声を上げるのを止められなかった。
「うわぁぁ、なんだ!?」
そこに立っていたのは確かに人間だった。いや、元人間だったと言った方が正確だろう。何故ならば彼の顔は腐りかけていたのだから。
「ゾンビ!? なんでこんな所にっ!?」
そう、少年がそう思わず叫んでしまった様に、その人影はゾンビであった。腐った死体。腐臭を漂わせながら、生者に襲い掛かってくる不死人。魔物の中でもアンデッドに分類されるものとしては代表例として名前が挙がる事もあるであろう存在。そのゾンビが今何故か、少年の目の前に現れていた。
その筋力が、素早さが、などといった事は少年の頭の中から消し飛んでいた。圧倒的な恐怖が少年の心を蝕んでいた。
少年の心を襲った恐怖は当然"魔物に出会ってしまった。自衛ができない"という思いから来たものである事は確かである。が、それ以上に少年が恐怖したのは、ゾンビの在り方そのものであった。
既にどこを見ているか分からない、定まらない視線。片頬が腐っており、皮膚と肉とが垂れ下がって紫色の歯茎とボロボロの歯が剥き出しになっている。髪の一部がゴソッと抜け落ちており、頭蓋が割れているのが分かる。そしてその頭の中をウニョウニョと蛆虫が這いまわっていた。
そして何よりも、圧倒的な腐臭。ただそこにあるだけで人間に生物としての本能的な恐怖を抱かせる存在。それがゾンビという魔物であった。
カクンと少年の膝から力が抜けて、地面に座り込んでしまう。意識外の事で混乱して何とか立ち上がろうとするも、少年の足は思うように動いてくれない。
それどころか本能からか体が小刻みに震えて来る。そしてゆっくりと、しかし確実に近づいて来るゾンビ――。
「あ、あ、あ、あ」
将来がどうとかサラがどうとか、という不平不満などは既に頭の中から消え去り、あるのはただの恐怖。足が動かないならばと少しずつ手で押してゾンビとは反対方向へ這ってでも逃げ出そうとするも、肘にも力が入ってくれない。
しかし容赦なくゾンビは近づいて――。
「――はい、もう大丈夫ですよ」
その声が聞こえ、少年は目を開けた。目の前には、ゾンビと少年の間に立ち、少年の方を見て微笑みかけるサラの姿があった。
***
北門に魔物が出た。そこに先ほどの少年がいるかもしれない。そしてこの街では防衛できる戦力が無いかもしれない。
それだけ聞けば、サラが動くには十分な理由になった。
自分を抱きしめていたライアの腕の中からスルッと抜け出すと、サラは一目散に北門へと走った。背後からはカリンのものらしき叫び声が聞こえたが、それは彼女が気づいたという証左であり追いかけてきてくれるだろうとは考えても、足を止めようとは思わなかった。
確かに養父にも自重するようにとは言われたし、カリンからも一人で動くのは危ないとは言われている。しかし自分の能力が防御に適していると知っているサラにとっては、今被害を受けるかもしれない少年がいてそれを救えるかもしれないと考えれば、自分一人で先へ向かう事は当然の結論となってしまっていた。
幸いな事に北門はすぐに分かったし、そこから少し行った所で少年を見つける事もできた。そして少年はへたり込み、それを今まさに襲おうとしているゾンビの姿があるのに気づいたサラは、足を速めて何とか少年とゾンビの間に入り込む事ができた。
「はい、もう大丈夫ですよ」
恐怖で引きつっていた少年に向かって微笑んだサラは、次の瞬間にはゾンビに正対すると、手を祈りの形に組んだ。
そして自分の能力――胸元にある聖痕に意識を集中する。
――聖痕者とは"聖王器"を扱う為の資格を持つ者である、というのは確かである。だがそれは聖痕者にしか聖王器を扱えない事を意味しても、逆に聖王器を扱える者の事を聖痕者と呼んでいる訳ではない。
聖痕者とは本来"生来その身に刻まれた印から、特殊な固有能力を使う事ができる者"なのだ。
そしてサラが発現した聖痕の能力は<聖域>。サラが望んだ、人を救う事ができる能力である。
「――<聖域>」
祈りと共にサラが唱えた瞬間、胸元の聖痕が輝く。と同時にサラを中心とした結界が形成された。距離は込めた魔力に依るが、今は少年と自分を守る程度の広さがありさえすればいい。そうしてサラが定めた限定空間を、金色の靄が薄っすらと漂う。そして外界との境界は決して敵の攻撃を通さない。
サラを中心とした球体空間を、絶対不可侵の領域とする能力。それがサラが授かった聖痕の能力、<聖域>である。
この<聖域>についてはサラもまだ研究中であり発展途上である。が、ゾンビ程度の攻撃を防ぐのには問題が無い。この<聖域>の結界を少年を含んで形成できた時点で、サラと少年の身の安全は保証されたのである。
目の前のゾンビも結界を越える事はできないと分かっているようだ。近づけない事に不思議がるのか躊躇はしているものの、決して一定距離すなわち<聖域>の範囲内に踏み込むことが出来ないでいた。
この結界はサラが魔力を流し込み祈っている間中であれば保持できる。こうして自分と保護対象が安全に守られている中、場合によってはそれを囮として注意を集めた上で、カリン達に倒してもらう。それがサラやカリン達がこれまで訪れた村や街などで魔物を相手にしてきた常套手段なのである。
そしてまた、今回もサラは自分の後ろからカリン達が走り寄ってくる音を耳で捉えていた。毎回毎回こうしてサラが真っ先に前線に出る事に苦言を呈するものの、結局カリンは来てくれるのだ。その信頼は過去の経験から存在していた。
――だから、その後の展開はサラには想定外のものだった。
ゾンビを目の前にしたカリンが、いきなり硬直すると剣を取り落とし、口に手を当てて叫び声を上げたのだ。
「キャァァァァァァァァァッ!」
「……あら?」
カリンの叫びが恐怖の叫びであった事に、サラはこんな状況にも関わらず首を傾げてしまった。
***
カリン・エズベア。現在彼女はまだまだ見習いではあるものの次期聖王候補であるサラの専属護衛である。
その歴はサラが奉仕の依頼に携わるようになってからであり、まだ数か月でしかない。
カリンは一言で言ってしまえば、現代女子である。
ハイスクール時代は仲良しグループと遊び惚けたし、それなりに勉強も運動も頑張るという、正しく青春時代を謳歌してきたと言える。据え置きゲーム機でのタイトルも有名どころはかいつまんだし、携帯端末に入れたアプリでは友達とパズルゲームのスコアを競ったり、自撮りを送りあったりした。
彼女が学生時代にもっとも得意だったのは体育の授業であり、特に槍術においては適性があった。地方大会では優勝経験もあり、卒業後の進路を考える時にはそれを活かす方向を当然視野に入れていたし、護衛騎士という仕事に目が行ったのも出身が聖王都セレストならではとは言えるだろう。
そんな彼女がサラの専属護衛になったのは偶然でしかない。サラ自体がスラム上がりの教育がまだ足りていない候補という異色の存在である。であるならばカリンの様なまだ若手であっても共に成長できる存在が良いのではないか、と上が考えたかは定かではない。だがカリンは初の仕事がサラの護衛という抜擢をされていた。
勿論、実際の仕事の前の研修では幾度もの実戦も経験した。学生時代は試合でしかなかった剣術槍術が、本当に人を害す為に振るう必要があると思い知らされもしたし、手近なところから捕まえて来た魔獣を殺す事での経験も積まされる事になった。
それらは勿論、護衛をする段になってから"魔物を殺生できません"では済まないからである。が、それでも用意できる魔物の種類には限りがある。それは当然で、そういった研修の為にとわざわざ捕まえる事ができる魔物は限られているし、近場に簡単に探しに行ける魔物しか選べない。
そしてゾンビであるが、これは研修対象外であった。それも当然でこのような魔物を飼っておくなど出来ないし、なにより見かけたら即殲滅が当然の魔物である。たかが新人の研修の為にキープするなどあり得ない。
勿論、机上では訓練させられたし、画像動画などでも見させられはした。
――しかし。
所詮は資料上のものと実際に目の当たりにするものは違うのだ、という事をカリンは今、実感していた。
(キモいキモいキモいキモいキモいキモいキモいキモい、無理無理無理無理無理無理無理)
コミックやドラマで出てくるゾンビは、言葉を選ばなければ"顔色が悪い人"に過ぎないとも言えた。それは当然絵で描かれたものか役者が演じたものであるため、それ以上にはならない。見せられた資料も所詮はディスプレイ越しに見るものに過ぎなかった。
そして今、初めて目の当たりにしたゾンビの醜悪さに、カリンは全身の毛が逆立つような本能的な嫌悪を感じていた。簡潔に言ってしまえば「生理的に無理」という事だ。
見た目の醜さも勿論駄目だ。が、それは資料等からある程度の耐性はついていた。勿論改めて間近で見るととても正視できるものではなかったが、そこに留まるのならばカリンとて仕事中であるプライドにかけて何とか自分を叱咤して立っている事は出来ただろう。
だがその臭いがあまりにも醜悪だった。
肉が腐り落ちる臭い。しかも人間のそれが腐る臭いだ。
その圧倒的なリアリティがカリンを襲い、それがなんとか押し込めようとしていたビジュアル面から来る忌避感と嫌悪感を一気に後押しした。
結果としてカリンは本能的な恐怖と、湧き上がってくる吐き気に耐えきれずに剣を取り落としてしまった。
白く濁った眼をしたゾンビがカリンの方へゆっくりと向かってくる悪夢に、護衛騎士としてあるまじき事に動けなくなってしまう。
――繰り返すが、次期聖王候補の専属護衛としてはあるまじき事である。
それをもって彼女の事を責める事は容易い。だがそれのみを問題視するのはいささか酷であろう。彼女の抜擢を考え、それ以外のフォローを怠っている上司についても責めを負うべきなのは当然と言える状態が出来上がってしまっていたというのが事実ではある。
が、そんな事は今この瞬間には関係が無い。
サラが囮になってまでも仕留めようとしていたゾンビを、もはやカリンは正視する事すらできなくなっていた。
一度恐怖に支配されてしまえば、つい数か月前までただの学生だった気分が蘇ってきてしまう。それを圧しとどめプロであろうとするには、カリンには経験も覚悟も足りなさ過ぎた。
(怖い怖い怖い怖い、臭い臭い臭い、キモいキモいキモいキモい)
そう頭では連呼するだけで身体が動かない。それはまるで素人のようで、それこそ先ほどの少年の姿とさして変わらない。
そんなカリンにゆっくりとゾンビの手が近づいていき――。
「ああ、もう見てらんねぇ!」
突如飛び込んできた人影が、カリンの目の前のゾンビの首を掻き切った。




