もう、待たせない
夜が更けた寝室には、蝋燭の淡い灯りだけが、静かに揺れていた。
窓の外では、虫の音が絶えることなく響いている。冷えた夜気が薄いカーテン越しに忍び込み、時折、灯火の炎を小さく揺らした。寝台の上掛けは皺一つなく整えられ、その静けさが、これから訪れるであろう時間の重みを、静かに物語っているようだった。
湯浴みを終えたシンクレアは、寝台の縁に腰掛けたまま、指先で夜着の裾をそっと撫でていた。鼓動が、いつもより速く胸を打っている。だが、それは以前のような、義務感からくる緊張ではなかった。
扉の向こうから、微かな足音が近づいてくる。
静かに開かれた扉の先には、湯浴みを終えたオーレリアンの姿があった。黒髪はまだ僅かに湿り気を残し、灯りに照らされたその瞳には、これまでと違う、確かな熱が宿っている。
「起きてたのか」
短い問いかけに、シンクレアは小さく頷いた。
歩み寄ってきたオーレリアンが、寝台の傍らに腰を下ろす。以前と同じように、二人の間には僅かな距離があった。だが、その意味合いは、あの初夜の時とは、まるで違っている。
しばらくの沈黙が、二人の間に流れた。互いの視線が絡み合い、言葉にせずとも通じ合う想いが、静かに満ちていく。
シンクレアは、ゆっくりと手を伸ばした。剣を握り続けてきた硬さの残る指先が、オーレリアンの頬にそっと触れる。
「今日は」
囁くような声だった。
「もう、待たせない」
その一言に込められた意味を、オーレリアンは静かに受け止めていた。かつて交わした約束──クレアが俺を好きになってからでいいという、あの言葉。長い月日を経て、ようやくその約束が、果たされる時が訪れていた。
「クレア」
掠れた声で名を呼ぶと、オーレリアンはそっとシンクレアの手を握り返す。剣を交わす戦友として、そして今、心を通わせた伴侶として。積み重ねてきた全ての時間が、この瞬間に静かに収束していくようだった。
蝋燭の灯りが、二人の影を壁へ長く伸ばしている。
やがて、灯芯の炎が小さく揺れ、静かに消えた。
窓の外に広がる夜の帳が、これまでよりも一層深く、二人の影が重なり、寝室を包み込んでいく。
朝の光が、レースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
小鳥のさえずりが、遠くから微かに響いている。寝台の上で、シンクレアはゆっくりと目を開けた。隣には、まだ穏やかな寝息を立てるオーレリアンの姿がある。
しばらくの間、天井を見つめたまま、シンクレアは動けずにいた。昨夜の記憶が、次々と胸の奥から蘇ってくる。頬に、じわりと熱が広がっていった。
隣で身じろぎする気配に、シンクレアは咄嗟に視線を逸らす。
「……おはよう」
掠れた声で告げられた挨拶に、シンクレアは小さく頷いた。だが、視線は合わせられない。
「ああ」
短く答える声も、いつもより硬かった。
しばらくの間、気まずい沈黙が、寝室に流れる。互いに何かを言おうとしては、言葉を飲み込む。そんな繰り返しが、幾度か続いた。
「その……」
先に口を開いたのは、オーレリアンだった。だが、続く言葉は、うまく形にならないようだった。頬には、隠しきれない朱が差している。
「昨夜は」
「言うな」
咄嗟に遮ると、シンクレアは寝台の上掛けを、僅かに引き寄せた。耳の先まで赤く染まったその横顔を、隠すようにしながら。
だが、そう告げる声には、拒絶の色は微塵もなかった。むしろ、込み上げる気恥ずかしさの奥に、確かな幸福が滲んでいる。
オーレリアンは、そんな様子をしばらく見つめていたが、やがて堪えきれずに小さく笑った。
「なあ」
囁くように呼びかける声に、シンクレアは僅かに視線を向ける。
「これからも、ずっと一緒だな」
その言葉には、これまでの軽さとは違う、確かな実感が込められていた。夫婦として、戦友として、そして今、本当の意味で心を通わせた伴侶として。
シンクレアは、しばらく無言のまま、その言葉を噛み締めていた。やがて、小さく、けれど確かな声で答える。
「ああ」
短い返答だったが、そこに込められた想いの深さは、これまでのどんな言葉よりも重かった。
差し込む朝の光が、二人を優しく包み込んでいる。気恥ずかしさを残しながらも、その表情には、隠しきれない温かな笑みが浮かんでいた。
婚約破棄という始まりから、十二年前の初恋を経て、夫婦としての日々を積み重ね、そして今、本当の意味で結ばれた二人。長い物語の果てに辿り着いたこの朝は、これから続いていく穏やかな日々の、確かな始まりを告げていた。
寝室の外では、キララが小さく一声鳴いている。まるで、この幸せな朝を祝福するかのような、優しい響きだった。




