甘えん坊と伝えられた想い
回復期の療養も、ようやく終わりが見え始めていた。
寝室の窓からは、澄み渡った秋の空が広がっている。数日前まで青白かった頬には、確かな血色が戻り始めていた。オーレリアンは寝台の上で身を起こし、伸びをするように両腕を高く掲げる。関節から小さく音が鳴った。
「今日は、随分と調子が良さそうだな」
様子を窺いながら、シンクレアは扉を開けて中へ入った。手にした盆には、湯気の立つ食事が並んでいる。侍女が用意してくれたそれを、寝台の脇の小卓へと運び、椀を手に取った。
「一人で食べられるだろう」
そう言って、匙の柄をオーレリアンへ向けて差し出す。だが、受け取る様子がない。見れば、オーレリアンは寝台に座ったまま、両手を膝の上へ揃え、ただこちらを見つめていた。
小首を傾げるようにして、口をぽかんと開けている。
「?」
意図が読めず、シンクレアはしばし固まった。差し出した匙を、再度目の前へ突き出してみる。それでも、オーレリアンは受け取ろうとしない。むしろ、開けた口を、これ見よがしに強調するように、僅かに顎を上げてみせた。
その仕草の意味を悟った瞬間、シンクレアの眉間に、深い皺が刻まれる。
「私はお前の母親でも、姉でもないぞ」
低く唸るように告げると、シンクレアは匙を椀へ戻した。
「自分で食べろ」
にべもない返答に、オーレリアンは不満そうに唇を尖らせた。
「こんなの、母上にも頼まないぞ」
「なら、なぜ私に頼む」
「それに、そもそも俺に姉はいない」
的外れな返しに、シンクレアはこめかみを押さえた。呆れと苛立ちが入り混じった溜め息が、思わず漏れる。
「屁理屈を言うな」
叱るように告げながらも、寝台の脇に置かれた椅子へ、シンクレアは静かに腰を下ろした。手にした椀から立ち上る湯気を眺めながら、深く息を吐く。
「全く、どこまで甘えん坊なんだ」
呟くように零しながらも、匙を手に取り直す。溶き卵の入った柔らかな粥を掬い、それをオーレリアンの口元へと運んだ。
「ん──」
満足げに口を開けたまま、それを受け入れる。咀嚼する様子を、シンクレアはしばらく無言のまま見つめていた。呆れながらも、その表情には、隠しきれない柔らかさが滲んでいる。
寝台の傍らでは、白い毛並みのキララが、伏せの姿勢のまま二人の様子を見上げていた。ゆっくりと尾を振り、時折鼻先を持ち上げては、匂いを確かめるように動かしている。
「わふっ」
短く一声鳴くと、キララは前足の上へ顎を乗せた。安心しきったように、瞳を細めている。
その姿を横目に見ながら、シンクレアは再び匙を椀へ沈めた。
「お前は一体、何度倒れるんだ」
ぶつくさと文句を零しながらも、次の一口を差し出す。オーレリアンはそれを受け取りながら、へらりと笑った。
「悪い悪い」
軽い調子で答える様子に、シンクレアはますます眉を寄せる。だが、それ以上叱る言葉は続かなかった。代わりに、静かな呟きが零れる。
「お前となら、暇はしなさそうだな」
その一言には、これまでの緊張と疲労を経てなお消えない、確かな親しみが滲んでいた。オーレリアンは目を細め、小さく笑う。
「あの毒針や毒矢、避けられる奴なんて、ほとんどいないだろ」
咀嚼を終えると、オーレリアンは軽い口調で続けた。
「死角から放たれたものだったし。仕方ない」
「開き直るな」
「エメリンって、優秀な薬師がいて良かったよ、ほんと」
呑気な調子で告げるその横顔を、シンクレアはしばらく見つめていた。緊張感の欠片もない声音に、思わず言葉に詰まる。命の危機を、まるで他人事のように語る夫の姿に、これまで押し殺してきた何かが、静かに込み上げてきた。
匙を持つ手が、僅かに震える。
「そんな軽い言い方をするな」
搾り出すような声に、オーレリアンは僅かに目を見開いた。いつもとは違う響きに、笑みを収める。
シンクレアは椀を小卓へ置くと、膝の上で両手を強く握り締めた。視線を落としたまま、しばらくの間、言葉を探すように沈黙する。
「お前を失うのが、怖い」
ようやく紡がれた声は、掠れて小さかった。
「これからも、それは変わらないと思う」
窓から差し込む秋の陽射しが、俯いたシンクレアの横顔を、柔らかく照らしている。膝の上で握られた指先には、隠しきれない震えが残っていた。
「だから」
一度言葉を切り、シンクレアはゆっくりと顔を上げる。金色の瞳と、真っ直ぐに視線が交わった。
「ずっと……一緒にいたい」
頬に、僅かな朱が差していく。恥じらいを堪えるように、それでも視線だけは逸らさない。
「私は、お前を愛してる」
はっきりと紡がれたその一言に、部屋の空気が、静かに揺れた。
オーレリアンは、しばらくの間、瞬きすら忘れたように固まっていた。信じられないというより、その言葉の重みを、ゆっくりと噛み締めているような沈黙だった。
やがて、その頬が見る間に赤く染まっていく。耳の先まで熱を帯びたその表情には、隠しきれない喜びが溢れ出していた。
「クレア……」
掠れた声で名を呼ぶと、オーレリアンは寝台から身を乗り出し、シンクレアの手をそっと包み込んだ。剣を握り続けてきた硬さの残る指先に、確かな温もりが伝わってくる。
「もう一回、言ってくれ」
懇願するような声に、シンクレアは僅かに眉を寄せた。だが、そこに滲む拒絶はない。
「一度で十分だろう」
素っ気なく答えながらも、握られた手を振り解こうとはしなかった。
「駄目だ、もう一回」
食い下がる様子に、シンクレアは小さく息を吐く。仕方ないというように、視線を伏せながら、それでも確かな声で繰り返した。
「愛してる」
その一言に、オーレリアンは堪えきれず相好を崩す。込み上げる喜びを隠しきれないまま、身を乗り出し、シンクレアの肩をそっと引き寄せた。
「俺も」
耳元で囁かれた声には、これまでの軽さとは違う、深い実感が込められている。
「ずっと、お前だけを想ってた」
十二年前の記憶が甦るよりも前から、そして甦った後も、変わらず貫かれてきた想い。その全てが、この一言に凝縮されているようだった。
寝台の脇で、キララがふわりと尾を振る。二人の様子を見守るように、黒い瞳が優しく細められていた。
「わふっ」
満足げな一声が、静かな部屋に響く。まるで、この幸せな瞬間を祝福するような、そんな声だった。
抱き寄せられたまま、シンクレアはしばらくの間、身を委ねていた。剣を交わす戦友として、そして今、想いを通わせた伴侶として。積み重ねてきた日々の全てが、この温もりの中に、確かに息づいている。
「まだ、本調子じゃないんだろう」
囁くように告げると、シンクレアは僅かに身を離した。だが、繋がれた手だけは、離そうとしない。
「無理はするな」
「する気はないさ」
答えながらも、オーレリアンの表情には、これまでにない晴れやかさが浮かんでいる。窓から差し込む秋の陽射しが、二人の姿を柔らかく照らしていた。
キララが再び、小さく鳴く。長い尾を揺らしながら、寝台の脇で丸くなるその姿は、まるで、この穏やかな時間そのものを見守っているようだった。
言葉にできた想いが、これから先の日々を、確かに彩っていく。婚約破棄という始まりから続いてきた物語は、今、新たな一章を迎えようとしていた。




