薬草園に吹く風
決戦から数日が過ぎた昼下がり、アスター子爵邸の薬草園には、穏やかな陽射しが降り注いでいた。
秋も深まりを見せ始め、色づいた葉が風に舞うたびに、乾いた音を立てて地面へ落ちていく。整然と区切られた区画の中で、エメリンは膝をつき、傷んだ薬草の株を丁寧に手入れしていた。土の匂いと、薬草特有の青臭い香りが、鼻腔をくすぐる。
「まだ、根が弱っておりますわね」
呟きながら、エメリンは葉の裏側を確かめる。先日の襲撃で踏み荒らされた区画は、少しずつ回復の兆しを見せ始めていたが、完全に元通りになるまでには、まだしばらくの時間を要するだろう。
「お嬢様」
声をかけられ、振り返ると、初老の執事セバスチャンが、盆に茶器を乗せて歩み寄ってくるところだった。長年アスター家に仕えてきたその佇まいには、確かな品格が滲んでいる。
「旦那様と奥様が、そろそろお茶にとおっしゃっております」
「今、参りますわ」
土に汚れた手を布で拭いながら、エメリンは立ち上がった。膝についた土埃を軽く払い、薬草園を後にする。
屋敷の一角に設えられた東屋では、既にアスター子爵アルフォンスと、妻セシリアが席についていた。秋の庭園を望むその場所には、穏やかな空気が満ちている。
「怪我の具合は、どうだ」
椅子に腰掛けたエメリンへ、アルフォンスが柔らかな声で問いかけた。誘拐事件の際に負った擦り傷は、既にほとんど治りかけている。
「もう、すっかり良くなりましたわ」
答えながら、エメリンは差し出された茶を受け取った。湯気とともに立ち上る芳しい香りが、張り詰めていた気持ちを、僅かに和らげてくれる。
セシリアは、娘の顔をしばらく見つめていた。母親らしい慈しみに満ちた眼差しだった。
「あなたが誘拐されたと聞いた時は、生きた心地がしませんでした」
震える声で告げると、セシリアはそっと娘の手を取った。
「シンクレア様が、助けてくださらなかったら……」
言葉の途中で、声が僅かに詰まる。エメリンはその手を握り返しながら、静かに微笑んだ。
「シンクレア様が来てくださって、本当に良かったですわ」
その言葉には、これまでの複雑な感情を経て辿り着いた、確かな信頼が滲んでいる。恋敵として意識していた頃には、想像もできなかった心境の変化だった。
アルフォンスは茶器を置きながら、感慨深げに呟いた。
「毒事件の折には、疑いをかけられ、辛い思いをさせてしまった。それなのに、その後もこうして助けていただけるとは」
「あの疑いは、無理もないことでしたわ」
エメリンは静かに首を横に振った。
「状況を考えれば、当然のことです。それに、シンクレア様は、真相が分かった時、真っ先に謝ってくださいましたもの」
その言葉に、アルフォンスは僅かに目を細めた。
「あの方は、公爵令嬢としての矜持だけでなく、剣士としての誠実さも、確かに持ち合わせているようだな」
「ええ」
短く頷きながら、エメリンは庭園の彼方へ視線を向けた。色づいた木々の向こう、薬草園の一角が、秋の陽射しを受けて静かに輝いている。
「シンクレア様は、本当に素敵な方ですわ」
呟くように告げる声には、これまでの嫉妬とは異なる、純粋な敬意が滲んでいた。
「命を懸けて、わたくしを守ってくださいました。あの時の背中を、わたくしは一生忘れませんわ」
セシリアは娘の横顔を見つめながら、優しく微笑んだ。
「そして、リアン様も」
言葉を続けるエメリンの声には、これまでとは違う、穏やかな響きが宿っている。
「幼い頃から、ずっとお慕いしておりました。けれど、あの方が本当に見つめていたのは、シンクレア様だったのですわね」
その言葉には、僅かな寂しさと、それを上回る確かな祝福の気持ちが、共に滲んでいた。長年抱えてきた想いに区切りをつけたエメリンの表情には、以前よりも澄んだ強さが浮かんでいる。
「お二人が、これからも幸せであってほしいと、心から願っておりますわ」
その言葉に、アルフォンスとセシリアは、静かに顔を見合わせた。娘の成長を、確かに感じ取っているような、そんな眼差しだった。
しばしの沈黙のあと、アルフォンスは真剣な表情で切り出した。
「今後のことだが」
改まった声に、エメリンは姿勢を正す。
「今回の一件で、薬草園の重要性が、改めて王家にも認識されたようだ。王都からも、正式に協力を求める書簡が届いている」
「協力、ですの」
「アスター家の薬学の知識を、より広く、王国全体の防衛に役立ててほしいとのことだ」
アルフォンスは静かに続けた。
「これまで以上に、辺境軍や王国軍への医薬品供給を強化する必要が出てくるだろう。お前にも、これまで以上の負担をかけることになるかもしれない」
その言葉に、エメリンはしばらく考え込んでいた。だが、やがて、迷いのない声で答える。
「わたくしにできることでしたら、いくらでもお手伝いいたしますわ」
決意の滲む声だった。
「薬は、命を救うためにあるもの。それが、アスター家の誇りですもの」
家訓を口にするその瞳には、これまでの恋に浮かれる令嬢としての一面とは異なる、薬師としての確かな矜持が宿っている。
セシリアは、そんな娘の姿を、誇らしげに見つめていた。
「あなたは、本当に立派になりましたわね」
しみじみと告げる声に、エメリンは僅かに頬を赤らめた。
「まだまだ、未熟者ですわ。父上や母上には、遠く及びません」
「いや」
アルフォンスが静かに首を振った。
「今回の毒事件でも、誘拐事件でも、お前は薬師として、そして一人の人間として、立派に己の役目を果たした。それは、誰にも否定できない事実だ」
その言葉に、エメリンは静かに目を伏せた。込み上げてくる感情を抑えるように、しばらく沈黙が続く。
やがて、庭を渡る風が、静かに三人の間を吹き抜けていった。色づいた葉が舞い落ち、東屋の屋根を優しく打つ。
「これからも、精進いたしますわ」
顔を上げたエメリンの表情には、確かな決意が滲んでいた。
「薬草園を守り、辺境の人々を支え、そして……」
一度言葉を切り、僅かに微笑む。
「リアン様とシンクレア様の、これからの幸せも、しっかりと見守っていきたいですわ」
その言葉に、アルフォンスとセシリアは、揃って柔らかな笑みを浮かべた。
「良き友を持ったものだな」
アルフォンスの言葉に、エメリンは小さく頷いた。
秋の陽射しが、薬草園を静かに照らし続けている。恋に一喜一憂していた日々を経て、エメリンは今、薬師としての誇りと、大切な友への想いを胸に、新たな一歩を踏み出そうとしていた。
東屋に流れる穏やかな時間の中、アスター家の未来もまた、確かな歩みを続けていくのだった。




