崩れゆく巨躯
脇腹を掠めた一撃を機に、黒狼の動きには僅かな乱れが生じ始めていた。
これまで一切揺らぐことのなかった呼吸に、僅かな乱れが混じる。傷そのものは深くないはずだったが、積み重なった疲労が、ようやくその輪郭を見せ始めていた。膨大な体力を誇る巨躯とはいえ、際限なく戦い続けられるわけではない。
「まだ、終わらんぞ」
低く唸りながら、黒狼は体勢を立て直した。両手剣を握る腕には、まだ確かな力が宿っている。それでも、先ほどまでの隙のない構えとは、明らかに違う何かが滲んでいた。
シンクレアは負傷した肩を庇いながら、次の一手を見極めようとしていた。オーレリアンの側を見やると、荒い呼吸を繰り返しながらも、まだ剣を握る手を離していない。毒の影響は色濃く残っているはずだったが、その瞳には、消えることのない光が宿り続けていた。
「もう少しだ」
囁くように告げるシンクレアに、オーレリアンは小さく頷き返す。言葉を交わす余裕さえ僅かしか残されていなかったが、それでも互いの意志だけは、確かに通じ合っていた。
黒狼は二人を交互に見据えながら、両手剣を構え直す。
「連携か。悪くない」
呟く声には、皮肉ではなく、確かな評価の色が滲んでいた。
「だが、俺を倒すには、まだ足りない」
言葉と同時に、黒狼は地を蹴った。踏み込みの速さは、僅かに衰えていたものの、それでも並の相手なら反応すら許さないほどの鋭さを保っている。
シンクレアは咄嗟に剣を構え、迫る一撃を受け止めた。伝わる衝撃に、負傷した肩が悲鳴を上げる。それでも、足を踏ん張り、押し返す力を緩めない。
「リアン」
短く名を呼ぶと、オーレリアンは即座に反応し、黒狼の背後へ回り込んだ。二人で挟み込む形を、再び作り上げる。
「同じ手が、何度も通じると思うな」
黒狼はそう告げながら、素早く後方へ跳び退いた。距離を取ることで、二方向からの攻撃を同時に受けることを避ける判断だった。
「逃げるのか」
挑発するように告げるシンクレアに、黒狼は僅かに口の端を歪めた。
「戦術的撤退だ。逃げるのとは違う」
言葉を交わしながらも、黒狼の視線は油断なく二人を捉え続けている。呼吸を整えるように、一度だけ深く息を吸い込んだ。
その隙を突くように、オーレリアンが地を蹴った。
朦朧とする意識の中でも、これまで積み重ねてきた実戦の勘だけは、まだ確かに機能していた。踏み込みの速さは万全とは言えなかったが、それでも黒狼の意識の隙間を縫うには、十分な速さだった。
「小賢しい」
苛立ちを滲ませながら、黒狼は両手剣を振るう。だが、その一撃は、これまでほどの鋭さを持っていなかった。積み重なった疲労が、確実にその動きを鈍らせている。
オーレリアンは辛うじてその一撃を躱すと、返す刀で黒狼の腕を狙った。刃が鎧の隙間を捉え、確かな手応えを残す。
「ぐっ……」
低い呻きとともに、黒狼の巨躯が僅かに傾いだ。腕から流れ出る血が、鎧の表面を伝い落ちていく。
「悪くない一撃だ」
痛みを堪えながらも、黒狼は不敵に笑った。だが、その声には、これまでのような余裕は、もはや見当たらない。
シンクレアは負傷した肩の痛みを押し殺しながら、剣を構え直す。二人がかりで積み重ねてきた小さな傷が、確実に黒狼の体力を削り取っていた。
「もう少しで、崩せる」
囁くように告げると、オーレリアンは小さく頷いた。毒の影響で視界は依然として歪んでいたが、それでも意識を手放すわけにはいかない。守るべきものが、目の前にある。
黒狼は流れる血を拭うこともなく、両手剣を構え直した。
「まだだ」
低く唸りながら、再び構えを取り直す。傷を負いながらも、その闘志は、依然として衰えを見せていなかった。
決着の時は、確実に近づきつつある。だが、まだその瞬間には、あと僅かな距離が残されていた。




