背中合わせ
黒狼との攻防が続く中、オーレリアンの意識に、微かな違和感が走った。
風に紛れて、何かが飛来する気配。反応しようとした矢先、首筋に鋭い痛みが走る。指先で触れた場所には、小さな針が突き刺さっていた。
「な……」
言葉を発する間もなく、視界の端が急速に歪み始める。地面が波打つように揺らぎ、立っているだけで平衡感覚が失われていった。
物陰から、黒髪を後ろで束ねた痩身の男が姿を現す。仮面には、蛇の牙を思わせる細長い意匠が刻まれていた。
「戦いの最中に、油断とはな」
嘲るような声が、遠く霞んだ意識の中に響く。黒蛇は、これまでの戦いで疲弊しきったオーレリアンを、絶好の獲物と見定めたのだろう。
込み上げてくる吐き気に、オーレリアンは思わず口元を押さえた。喉の奥から、鉄錆びに似た味が広がる。堪えきれず、地面へ血の混じった唾液を吐き出した。
視界が、二重に歪んで見える。それでも、目の前の黒狼から意識を逸らすわけにはいかなかった。
「弱った獲物を狩るのも、悪くない」
好機と見た黒狼が、両手剣を大きく振りかぶる。霞む視界の中、迫りくる刃の輪郭だけが、やけに鮮明に映った。
避けられない。
そう覚悟した、その瞬間だった。
風を切る音が、これまでのどの剣戟よりも鋭く響く。振り下ろされる両手剣の軌道へ、横合いから一筋の白刃が滑り込んだ。
銀色の髪が、陽光を弾いて舞う。地を蹴った勢いのまま、シンクレアは低い姿勢から剣を跳ね上げるように振り抜き、黒狼の一撃を真正面から弾き返していた。
金属同士が激突する轟音とともに、火花が散る。押し返された黒狼の巨躯が、僅かに後方へたたらを踏んだ。
「遅くなった」
短く告げると、シンクレアはそのまま流れるような動作で体勢を沈め、オーレリアンを庇うように前へ立つ。乱れ一つない足運び、迷いのない剣先。疲弊しきった夫の姿を目にしてなお、その双眸に浮かぶのは怯えではなく、燃えるような闘志だった。
「クレア……」
掠れた声で呟くオーレリアンに、シンクレアは振り返ることなく答えた。
「喋るな。今は、私に任せろ」
自然と、二人は背中合わせの形になっていく。互いの体温と息遣いだけを頼りに、オーレリアンは崩れそうになる身体を、どうにか支え続けた。
「毒か」
背中越しに、シンクレアが低く問いかける。
「厄介な、な」
搾り出すように答えながら、オーレリアンは剣を握る手に力を込め直した。意識は朦朧としながらも、まだ完全には手放していない。
黒蛇は薄く笑いながら、こちらの様子を窺っていた。
「二人がかりとは、卑怯だとは思わないのか」
シンクレアの声には、隠しきれない怒りが滲んでいる。
「戦の常道だ」
黒蛇は懐から新たな毒針を取り出しながら、静かに答えた。
「弱った者から狩る。それだけの話だ」
言葉と同時に、黒蛇は新たな一撃を放とうと、シンクレアへ向けて針を構える。
その瞬間、背後から地を蹴る鋭い足音が近づいてきた。
「そこまでだ」
低く重い声とともに、ガイアスが割って入る。振り抜かれた剣が、黒蛇の毒針を弾き飛ばした。
「何者だ」
咄嗟に距離を取りながら、黒蛇は苛立たしげに問いを投げる。予期していなかった乱入に、その仮面の奥から覗く目に、明確な警戒の色が滲んでいた。
「毒使いは、俺が相手をする」
ガイアスは剣を構えながら、静かに告げた。
「お前らは、そっちに集中しろ」
短い指示に、シンクレアは頷きながらも、オーレリアンを支える腕を緩めなかった。ガイアスと黒蛇が、二人から距離を取るように移動していく。
「感謝する、兄上」
搾り出すように呟くオーレリアンに、ガイアスは振り返らずに答えた。
「礼はあとだ。まずは、目の前の敵を片付けろ」
その言葉を最後に、ガイアスは黒蛇との対峙へ意識を切り替えていく。二つの戦場が、静かに分かたれていった。
背中合わせのまま、オーレリアンとシンクレアは、改めて黒狼と向き合う。
「動けるか」
低く問いかけるシンクレアに、オーレリアンは歯を食いしばりながら答えた。
「まだ、大丈夫だ」
強がりだと分かっていたが、それでも、この場で退くわけにはいかなかった。
黒狼は、二人の様子をしばらく無言のまま眺めていた。仮面の奥から覗く瞳には、これまでにない興味の色が浮かんでいる。
「夫婦で、背中を預け合うか」
低く呟くと、黒狼は両手剣を構え直した。
「面白い。だが、それで俺に勝てると思うなよ」
その言葉と同時に、黒狼は地を蹴った。これまで以上の速さで距離を詰め、両手剣を振るってくる。
シンクレアは咄嗟に前へ出て、その一撃を受け止めた。伝わる衝撃に、僅かに体勢を崩されながらも、踏ん張って押し返す。
「私が受ける。お前は、態勢を整えろ」
背中越しに告げられた言葉に、オーレリアンは荒い息を整えながら頷いた。毒の影響で朦朧とする意識を、必死にかき集める。
黒狼の連撃が、休む間もなくシンクレアへ襲いかかる。受け、躱し、時に紙一重で避けながら、シンクレアは巧みに攻撃を捌いていった。だが、その一撃一撃に込められた重さは、これまで対峙してきたどの敵よりも圧倒的だった。
「いつまで、保つかな」
黒狼が低く笑いながら、さらに攻めの手を強める。剣を握る腕に、確かな疲労の色が滲み始めていた。
背後で、オーレリアンは深く息を吸い込んだ。毒の痺れに抗いながら、意識を研ぎ澄ませていく。
「もう少しだけ、時間をくれ」
搾り出すように呟く声に、シンクレアは短く答えた。
「急げ。長くは保たない」
刃を交える音が、絶え間なく響き続ける。決着はまだ見えない。夫婦として背中を預け合う二人と、圧倒的な力を誇る団長との戦いは、なおも激しさを増していった。




