ローゼンタール公爵家からの返書 2
オーレリアンは手にしていた木剣をゆっくりと下ろした。
胸の鼓動だけが、やけにはっきりと耳へ届く。
三日。
長いようで短かった三日間。
その答えが、今、兄の手の中にある。
レオンは兵士たちへ軽く視線を向けると、訓練の邪魔をしないよう端へ寄って足を止めた。
「リアン」
静かな声だった。
急かすでもなく、叱るでもない。
それでも、オーレリアンはすぐに歩き出していた。
近づくにつれ、封蝋に刻まれた紋章がはっきり見える。
薔薇を囲む二頭の獅子。
紛れもなくローゼンタール公爵家のものだった。
「兄上……」
声が自然と漏れる。
「返事ですか?」
期待を隠そうとは思わなかった。
隠せるとも思わなかった。
レオンは弟を見つめ、小さく頷く。
「ああ」
たった一文字。
それだけで十分だった。
オーレリアンは思わず封書へ視線を落とす。
もう少し手を伸ばせば届く距離。
今すぐ奪って開きたくなる衝動を、どうにか押し留めた。
「内容は……」
問いかけたところで、レオンはわずかに口元を上げた。
「ここで聞くつもりか?」
オーレリアンは一瞬きょとんとした。
そして周囲を見回す。
兵士たちは誰もこちらを見ていない。
見ていないのだが。
耳だけはこちらへ向いていた。
木剣を磨いている兵士。
鎧の紐を結び直している兵士。
肩の力を抜く練習を続ける先ほどの新兵。
誰一人こちらを見ていない。
だが全員、聞く気満々だった。
(……聞いてるな)
思わず苦笑する。
レオンも同じことを思ったらしく、小さく肩をすくめた。
「ここで話せば、夕方には兵舎中へ広まる」
「間違いありません」
「分かっているならいい」
オーレリアンは咳払いを一つした。
「悪い」
兵士たちへ向き直る。
「今日はここまでにする」
「はい!」
返事だけは実に立派だった。
だが何人かは露骨に残念そうな顔をしている。
「リアン様」
先ほどの若い兵士が恐る恐る声を掛けた。
「何だ?」
「その……良い返事だといいですね」
一瞬だけ訓練場が静まった。
次の瞬間、あちこちから小さく頷く気配が伝わってくる。
「そうですね」
「応援してます」
「リアン様なら大丈夫ですよ」
口々にそんな声が上がった。
オーレリアンは目を丸くする。
「……何で知ってる?」
兵士たちは互いの顔を見合わせた。
そして一人が代表するように頭を掻く。
「いや、その……」
「三日前から様子がおかしかったので」
別の兵士が続ける。
「食事中に執事が入ってくるたび入口を見てましたし」
「馬の音がするたび外を見てました」
「昨日なんて訓練中に屋敷を見てました」
「全部見られてたのか……」
「分かりやすいですよ」
若い兵士が笑う。
「リアン様、顔に出ますから」
オーレリアンは額へ手を当てた。
そんなつもりは全くなかった。
普通にしていたつもりだった。
どうやら普通ではなかったらしい。
レオンが肩を震わせている。
笑っている。
「兄上まで」
「いや」
レオンは咳払いで誤魔化した。
「思った以上だったな」
「そんなにですか」
「三兄が見たら、一日で見抜く」
「……恥ずかしいですね」
「安心しろ」
レオンは兵士たちへ視線を向ける。
「この者たちは口が堅い」
「もちろんです!」
返事だけは異様に早かった。
だが全員の表情がどこか楽しそうだ。
応援されている。
そう思うと、恥ずかしさより嬉しさの方が勝った。
「ありがとう」
素直に礼を言うと、兵士たちは照れくさそうに頭を掻いた。
レオンはタイミングを見計らい、一歩前へ出る。
「行くぞ」
「あ、はい」
オーレリアンは慌てて後を追った。
訓練場を出る。
背中へ兵士たちの視線を感じた。
「頑張ってください!」
誰かがそう叫ぶ。
振り返ると、全員が笑っていた。
オーレリアンは少し照れながら手を挙げる。
「……頑張る」
その一言だけ返し、レオンと並んで歩き始めた。
訓練場を離れると、辺境の風が汗ばんだ肌を優しく撫でた。
春の匂い。
草の香り。
遠くで鳥が鳴いている。
どれも普段と変わらない。
それなのに今日は、世界全体が少しだけ明るく見えた。
まだ返事の内容は知らない。
断られている可能性だってある。
それでも。
返書が届いた。
それだけで、ローゼンタール公爵家との距離が少し縮まった気がした。
オーレリアンは横を歩くレオンを見る。
「兄上」
「何だ」
「返事……」
言いかける。
レオンはすぐに察したようだった。
「まだ読んでいない」
オーレリアンは足を止めかけた。
「……え?」
「父上宛てだからな」
レオンは封書を軽く持ち上げる。
「早馬から受け取っただけだ」
「じゃあ内容は……」
「誰も知らん」
オーレリアンはしばらく無言だった。
さっきから兄の表情を読み取ろうとしていた自分が馬鹿らしくなる。
「だったら最初に言ってくださいよ」
「聞かれなかった」
「悪い返事ですかって聞きました」
「知らないから答えなかった」
「知らないなら知らないって」
「お前の反応を少し見ていた」
オーレリアンは思わず立ち止まる。
「兄上までカイル兄上みたいなことを……」
レオンは珍しく小さく笑った。
「少し面白かった」
「ひどいです」
「そうか」
「そうですよ」
「だが」
レオンは前を向いたまま続ける。
「少し安心した」
「え?」
「お前が本気だと、改めて分かった」
その言葉に、オーレリアンは何も返せなかった。
本気。
そうなのだろう。
まだ恋なのかは分からない。
シンクレアのことも何も知らない。
それでも。
会いたい。
話したい。
知りたい。
その気持ちだけは、この三日間でさらに大きくなっていた。
レオンは歩調を緩めることなく屋敷へ向かう。
「書斎へ行く」
「父上と母上、それにカイルも待っている」
「はい」
オーレリアンはもう封書を見つめるのをやめた。
読んでもいない兄から表情を読み取ろうとしても意味がない。
結果は、封の中にしかない。
ならば。
もう待つしかなかった。
屋敷までの道が、今日に限ってひどく長く感じられた。




