俺と結婚してください 2
訓練場から歩いて数分。
見慣れた道であるはずなのに、今日は妙に長く感じる。
歩幅は普段と変わらない。
焦って走っているわけでもない。
それでも胸の奥だけが先へ先へと急いでいた。
訓練を終えた兵士たちと何人かすれ違う。
「お疲れ、リアン様」
「おう、お疲れ」
いつも通り笑って返す。
それだけの短いやり取りだったが、兵士はどこか不思議そうな顔をしていた。
普段なら立ち止まり、二言三言ほど雑談を交わす。
怪我はないか。
今日の訓練はどうだったか。
次の討伐はいつになりそうか。
そんな他愛もない話をしてから屋敷へ戻るのが日課だった。
今日は違う。
自分でも分かるほど足が止まらない。
兵士へ背を向けたあと、小さく苦笑が漏れた。
(余裕ないな、俺)
情けなく思う反面、可笑しくもあった。
十七年間生きてきて、ここまで一つの返事を待ち遠しく思ったことはない。
魔物討伐の命令なら、待つというより身体が勝手に動く。
軍の辞令なら、どの任務が来ても受け入れる覚悟はできている。
しかし今回は違う。
相手がどう返事をするか、自分では何一つ決められない。
だからこそ落ち着かなかった。
屋敷へ入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
磨き上げられた床へ窓からの光が長く差し込み、外の眩しさとは対照的な静けさが広がっている。
使用人たちが忙しなく行き交う姿も見慣れた光景だった。
洗濯を終えたリネンを運ぶメイド。
銀器を抱えた給仕。
廊下の花瓶を整える庭師。
誰もがいつもと同じ一日を過ごしている。
なのに、自分だけ違う時間を歩いているような気がした。
「リアン様」
すれ違ったメイドが足を止める。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
自然と笑みを返した。
彼女もまた、不思議そうに首を傾げる。
理由は簡単だった。
普段なら汗と土で汚れたまま書斎へ向かうことはない。
必ず着替え、身なりを整えてから兄たちの前へ行く。
今日はそれすら後回しにしている。
オーレリアン自身、そのことへようやく気付いた。
思わず苦笑が漏れる。
「……さすがにこの格好はまずいか」
訓練着の袖には薄く砂埃が付いていた。
革の胸当ても汗で湿っている。
木剣を振り続けたせいで髪も少し乱れていた。
このまま書斎へ入れば、間違いなくレオンに注意される。
そう思い直し、自室へ向かう。
急ぐ気持ちは変わらない。
だが、それ以上に兄たちへ失礼な格好で会うわけにはいかなかった。
部屋へ入ると窓から風が吹き込み、白いカーテンが静かに揺れていた。
壁へ立て掛けられた剣。
整然と並ぶ訓練着。
机の上には開きかけの剣術書。
どれも見慣れた景色だった。
革鎧を外す。
肩が軽くなる。
汗で肌へ張り付いた上着を脱ぐと、ひんやりした空気が火照った身体を包んだ。
桶へ汲ませておいた水で顔と腕を洗う。
冷たい。
掌から伝わる温度が、少しだけ頭を冷やしてくれる。
布で水気を拭き取り、新しいシャツへ袖を通す。
白い布地が肌へ触れる感触はさらりとしていて心地よい。
胸元の紐を結びながら鏡を見る。
そこには見慣れた自分が映っていた。
黒髪。
金色の瞳。
父や兄たちとよく似た顔立ち。
それでも今の表情だけは少し違う。
期待している。
そんな顔だった。
思わず鏡へ向かって苦笑する。
「分かりやすいな」
呟いてみる。
返事はもちろん返ってこない。
鏡の中の自分も、同じように笑っただけだった。
(そんなに嬉しいのか)
嬉しい。
認めるしかない。
会えるかもしれない。
たったそれだけで、こんなにも心が浮き立つ。
まだ会えると決まったわけではない。
返事の内容すら聞いていない。
それなのに期待ばかりが膨らんでいく。
その理由を考えようとして、ふと動きが止まる。
シンクレアの顔が浮かんだからだった。
王城で見た、あの日の横顔。
青灰色の瞳。
銀色の長い髪。
男装に近い黒い礼装。
そして最後まで崩れなかった背筋。
あの時、自分は何もできなかった。
名前を知ることしか。
見送ることしか。
それがずっと胸へ残っている。
だから今度は違う。
会えるなら会いたい。
話せるなら話したい。
彼女が今どんな毎日を過ごしているのか知りたい。
その気持ちだけは、一年前よりずっとはっきりしていた。
部屋を出る。
廊下は静かだった。
窓の外では木々が風に揺れ、葉擦れの音が柔らかく響いている。
西へ傾き始めた陽射しが赤みを帯び、長い影を床へ落としていた。
書斎は屋敷の奥にある。
そこまでの距離は決して遠くない。
それなのに一歩進むたび鼓動が速くなる。
手のひらが少し汗ばんでいることへ気付いた。
剣を握る時には滅多にないことだった。
緊張している。
その事実に、自分でも驚く。
魔物を前にしても。
初陣の日でさえ。
ここまで心臓は騒がなかった。
書斎の前へ立つ。
重厚な木の扉。
何度も開けたことがある。
けれど今日は、向こう側にある返事一つで、自分のこれからが少し変わるような気がした。
ゆっくり息を吸う。
肺いっぱいに空気を満たし、静かに吐き出す。
指先で扉を三度叩いた。
「失礼します」
扉の向こうから、少し間を置いてレオンの落ち着いた声が返ってくる。
「入りなさい」
その一言だけで、鼓動がまた一つ大きく鳴った。
オーレリアンはゆっくりと取っ手へ手を掛けた。




