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俺と結婚してください 1

ローゼンタール公爵家から返書が届いたのは、それから三日後の午後だった。


空はどこまでも青く澄み、辺境の山々を渡る風は春の名残を運んでくる。陽射しは暖かいが湿り気は少なく、鎧を身に着けて動けば額へ汗が滲む程度の心地よい気候だった。


辺境伯家の訓練場では、朝から木剣の打ち合う乾いた音が絶え間なく響いている。


踏み固められた土は何千何万という足跡を刻み込み、ところどころ剣先で抉られた跡が残っていた。砂埃の匂い。革鎧へ染みついた汗の匂い。鍛え上げた身体が動くたびに生まれる熱気。そのすべてが、この場所だけの空気を作っている。


オーレリアンは木剣を肩へ担いだまま、目の前の若い兵士を見つめていた。

まだ二十歳になったばかりの新兵である。


額には玉のような汗が浮かび、肩で息をしながらも木剣だけは決して下ろさない。その瞳には悔しさと負けん気が入り混じり、あと一歩でも前へ出ようという意志が宿っていた。


そんな目は嫌いではない。

強くなりたい者の目だ。


「もう一本いくか」


兵士は大きく息を吸い込み、力強く頷いた。

返事を待つ必要はない。


次の瞬間には地面を蹴っていた。

土が弾ける。

右上段から振り下ろされる木剣。

踏み込みは速い。


以前なら腰が浮いていたが、今日は重心がよく落ちている。ここ数日の鍛錬が身体へ馴染み始めた証拠だった。


オーレリアンは半歩だけ左へ身体を流す。

木剣が頬のすぐ横を風切り音とともに通り抜けた。

避けると同時に相手の手首を見る。

力みが残っている。

振り切ったあと、剣を戻すまで一瞬だけ遅れる癖はまだ抜けていない。

そこだけだった。

身体は自然と動く。

木剣を返し、相手の胸元へ軽く添えた。


勝負あり。


兵士は苦笑しながら肩を落とした。


「また負けたか……」


オーレリアンは木剣を下ろし、相手の肩を軽く叩く。


「惜しかった」


兵士が顔を上げる。

慰めではないと分かったのだろう。

その一言だけで表情が少し明るくなった。


「踏み込みはかなり良くなってる。ただ、振る瞬間だけ肩へ力が入る」


オーレリアンは自分の右肩を指先で叩いて見せる。


「ここ。ここへ力が入ると、剣より先に身体が教えてくれる」


兵士は何度も頷いた。

なるほど、と小さく呟き、自分の肩へ手を当てて確認している。


周囲で見学していた兵士たちも耳を傾けていた。

誰も笑わない。

誰も茶化さない。

この訓練場では、一つでも強くなるための言葉は宝だった。


オーレリアンはそういう空気が好きだった。

貴族同士の腹の探り合いも。

王都の社交界も。

嫌いではない。

だが、自分にはどうしても馴染めない。


ここなら違う。

剣を交えれば相手が分かる。

勝っても負けても後腐れがない。

だから自然と笑える。


「次はもう少し勝負になると思う」


そう言うと、兵士は照れくさそうに笑った。


「その言葉、信じます」


オーレリアンもつられて笑う。

その時だった。

訓練場の入口から、一人の人影が歩いてくる。

黒い燕尾服。

乱れ一つない身なり。

年齢を感じさせる落ち着いた足取り。

エルフレイム家へ長年仕える執事だった。

兵士たちは自然と道を開ける。

彼は誰にも急ぐよう促さない。

訓練が終わるまで待ち、邪魔にならない距離まで近づいてから静かに一礼した。


「リアン様」


その一言だけで、胸の奥が小さく波打った。


(……来た)


理由はない。


けれど、そう思った。


この三日間。

屋敷から使いが来るたび、心のどこかで期待していた。

ローゼンタール公爵家から返事が届いたのではないか。


今日こそ。


今日こそ返書が届いたのではないかと。

考えないようにしても、訓練の合間や食事の時間、不意に思い出してしまう。


一年前。


王城の大広間。


婚約を破棄されても背筋を曲げなかった銀色の女性。

閉ざされた扉の向こうへ消えていった背中。


あれから一年。


忘れた日は何度もあった。


軍務へ追われ、訓練に明け暮れ、魔物討伐へ向かえば、目の前のことだけで精一杯になる。

それでも結婚という言葉を向けられた瞬間、真っ先に思い浮かんだ。

他の誰でもない。


シンクレア・ローゼンタール。


その名前だけだった。

執事は変わらぬ表情のまま続ける。


「レオン様とカイル様が書斎でお待ちです」


それだけ。

返書とは言わない。

急げとも言わない。

だが、それで十分だった。


オーレリアンは木剣を見つめる。

掌にはまだ汗が残っていた。

さっきまで握っていた柄の感触が皮膚へ残っている。

それなのに今は、剣よりも胸の鼓動の方がはっきり分かった。


早い。


自分でも笑ってしまうくらい早い。


戦場へ出る前でさえ、こんな鼓動はしない。

断られているかもしれない。

会えないと言われるかもしれない。

そう思えば思うほど期待している自分がいた。


(落ち着け)


心の中で呟く。

まだ何も聞いていない。

返事の内容すら知らない。

それなのに浮かれている場合ではない。

木剣を近くの兵士へ渡す。


「悪い、片付け頼む」


「任せてください」


兵士は快く受け取った。

普段ならここで今日の反省を話す。

誰が良かったか。

何を直すべきか。

次の訓練はどうするか。

そんな時間も嫌いではない。

むしろ好きだった。


それでも今日は頭へ入らない。

心だけが屋敷へ向かっていた。


井戸から桶を汲む。

冷たい水を両手ですくい、勢いよく顔へ掛けた。

火照った頬が一気に冷える。

雫が額から鼻筋を伝い、顎先から土へ落ちた。

深く息を吸う。


湿った土の匂い。

草の香り。

遠くで鳴く鳥の声。


全部いつもと同じなのに、どこか遠く感じる。


一年前。


シンクレアもこんなふうに誰かを待ったことがあったのだろうか。

婚約者から言葉を掛けられることを。

隣へ立ってくれる日を。


そんなことを考えながら過ごした時間があったのなら。


あの日、公衆の面前で突きつけられた婚約破棄は、どれほど残酷だったのだろう。

胸が少しだけ痛んだ。


会ってみたい。


あの日からずっと思っていた。

どんな声で笑う人なのか。

剣を握る時はどんな顔をするのか。

本当はどんな人なのか。

知らないことばかりだった。

だから知りたい。

その気持ちは、この三日でますます大きくなっていた。


オーレリアンは濡れた髪を無造作に掻き上げる。

訓練着についた土を軽く払い落とし、屋敷へ向かって歩き出した。


一歩踏み出すたび、胸の鼓動が少しずつ速くなる。


返事は、もうそこにある。

あとは兄たちの口から聞くだけだった。


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