薬師の誇り
物資庫での戦いが決着する頃、拠点の裏手にある救護所付近では、別の緊張が張り詰めていた。
エメリンは負傷兵の手当てのため、拠点の外れに設けられた仮設の救護所で働いていた。奇襲作戦の後方支援として、傷ついた兵士たちの治療を一手に担う役目である。
止血を施し、痛みを和らげる薬を調合しながら、次々と運ばれてくる負傷者への対応に追われていた。額に汗を滲ませながらも、その手つきに乱れはない。薬瓶を選び取る指先、包帯を巻く速さ、いずれもが幾年にも及ぶ鍛錬の賜物だった。
そんな中、救護所の入口に、見慣れぬ人影が現れる。
黒髪を後ろで束ねた痩身の男だった。仮面には、蛇の牙を思わせる細長い意匠が刻まれている。
「随分と、繁盛しているようだな」
低く落ち着いた声だった。だが、その響きには、明らかな敵意が滲んでいる。
エメリンは手を止め、静かに相手を見据えた。
「あなたは」
問いかける声に、男は口の端を僅かに歪めた。
「黒蛇と呼ばれている。お前が、アスター家の小娘か」
「ええ」
短く答えながらも、その瞳の奥には、怯えとは違う、確かな強さが宿っていた。
「薬は、命を救うためのものだと信じているそうだな」
「その通りですわ」
即座に返す声には、迷いがなかった。
「だが、俺はそうは思わない」
黒蛇はゆっくりと歩みを進めながら、懐から小さな毒針の束を取り出す。
「薬は、最も効率の良い武器だ。命を救うためではなく、奪うために使ってこそ、真価を発揮する」
その言葉に、エメリンの表情が硬くなった。
「それは、冒涜ですわ」
震える声ながらも、そこには確かな怒りが滲んでいる。
「薬は命を救うためにあるものです。人を陥れたり、まして殺す道具ではございません」
「綺麗事だ」
黒蛇は嘲るように鼻を鳴らした。
「毒草を育てているくせに、よく言う。お前の家も、結局は毒を扱っているだろう」
「毒を知るのは、毒を治すためです」
エメリンは調合台に置かれた道具の中から、素早く一本の薬瓶を手に取りながら答えた。
「知ることと、使うことは違いますわ。あなたのように、人を傷つけるためだけに使うのとは」
対峙する二人の間に、薬師としての信念そのものを賭けた、静かな緊張が張り詰めていく。救護所の奥では、負傷した兵士たちが不安げにその様子を見守っていた。
「口だけは、達者なようだ」
黒蛇は毒針を指先で弄びながら、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
「だが、俺の毒針は、お前のような小娘が相手をできる代物じゃない」
言葉と同時に、黒蛇の手が鋭く振るわれる。宙を裂いて飛来する毒針を、エメリンは咄嗟に身を捻って躱した。頬をかすめた針の先が、後方の木箱へ深々と突き刺さる。
木箱に染み込んでいく毒液の色を見て、エメリンの背筋に冷たいものが走った。掠っただけでも、ただでは済まなかっただろう。
「動きは悪くないな」
面白がるような声とともに、黒蛇はさらに数本の毒針を構える。
「だが、いつまで避け続けられるかな」
エメリンは救護所の周囲へ素早く視線を巡らせた。逃げ場は限られている。それでも、背後には守るべき負傷兵たちがいた。ここで退くわけにはいかない。
調合台の上に並べられた薬瓶の中から、エメリンは特定の一本を選び取った。透明な液体の入ったそれを、片手でしっかりと握りしめる。
「あなたの毒は、確かに厄介ですわ」
震える声を押し殺しながら、エメリンは続けた。
「けれど、毒を知る者は、同時に解毒の術も知っている」
その言葉に、黒蛇は僅かに眉を寄せた。
「解毒だと」
「あなたの毒針に使われている成分は、北方毒草に似た系統のものでしょう」
冷静な観察眼が、恐怖を押し退けるように働き始めていた。積み重ねてきた薬学の知識が、竦みそうになる心を支えている。
「同じ土壌で育つ薬草には、その毒を中和する成分を持つものが多くございます」
そう告げながら、エメリンは手にした薬瓶の栓を素早く開けた。中の液体を自らの布へ染み込ませ、それを口元と鼻を覆うように巻きつける。
「解毒剤を、事前に用意していたと言うのか」
黒蛇の声に、初めて僅かな驚きが滲んだ。
「戦場に立つ以上、当然の備えですわ」
薬師としての矜持を込めた声だった。恐怖に竦みながらも、決して退かない意志が、その瞳に確かに宿っている。
黒蛇は舌打ちを漏らすと、残りの毒針を一斉に投げつけてきた。エメリンは救護所の柱を盾にしながら、その大半を躱していく。数本が布地をかすめたが、事前に施した処置のおかげか、深刻な影響は出ていなかった。
「小癪な真似を」
苛立ちを滲ませながら、黒蛇は懐から新たな武器――短剣を取り出す。毒針が尽きたと悟り、直接的な接近戦へ切り替える構えだった。
エメリンは咄嗟に、調合台に置かれていた乳鉢を手に取った。武術の心得はないが、機転を利かせて、少しでも時間を稼ごうとする。
その時だった。
救護所の入口から、荒い息を切らせた足音が近づいてくる。
「エメリン様!」
叫びながら駆け込んできたのは、簡易の警護として配置されていた辺境軍の兵士数名だった。異変を察知し、急いで駆けつけてきたのだろう。
黒蛇はその増援を見て、僅かに舌打ちを漏らした。
「今日のところは、退いてやる」
低く告げると、黒蛇は身を翻し、素早く救護所の裏手へと姿を消していく。追おうとする兵士を、エメリンは咄嗟に制した。
「深追いは、危険ですわ」
毒を扱う相手を無闇に追えば、更なる罠が待っている可能性がある。その判断は、冷静さに裏打ちされたものだった。
黒蛇の姿が完全に見えなくなると、エメリンはようやく詰めていた息を吐き出した。震える手を握り締め、崩れ落ちそうになる身体を、どうにか立たせ続ける。
「大丈夫、ですか」
駆け寄ってきた兵士の問いに、エメリンは小さく頷いた。
「ええ……何とか」
答える声はまだ震えていたが、その表情には、確かな達成感も滲んでいた。恐怖に押し潰されそうになりながらも、信念を貫き通せた。その事実が、震える身体に、僅かな誇りを取り戻させていく。
救護所の奥では、治療を待つ負傷兵たちが、安堵の表情でこちらを見つめていた。エメリンは乱れた息を整えながら、再び調合台へと向き直る。
「治療を、続けます」
静かに告げると、エメリンは手にしていた薬瓶を置き、次の患者へと意識を切り替えた。恐怖の余韻を振り払うように、その手は再び、迷いのない動きを取り戻していった。




