崖を越える者たち
山道を進むにつれ、木々の密度は増し、朝の光は次第に遮られていった。
隊列は三つに分かれている。ガイアスが率いる本隊は正面の谷筋を進み、囮となって旅団の注意を引きつける役目を負っていた。もう一隊は東側の斜面から迂回し、退路を断つ布陣を敷く。そしてシンクレアとオーレリアンを含む少数精鋭は、崖の緩やかな斜面から本拠地の内側へ潜り込む、最も危険な任を託されていた。
正面の谷筋を進むガイアスの部隊は、夜明けと同時に一気呵成の突撃を仕掛けていた。喊声が谷全体に響き渡り、剣戟の音が瞬く間に拠点全体へ広がっていく。奇襲というより、意図的な陽動だった。ここで大きく暴れることで、旅団の注意を正面へ引きつけ、崖から潜入する別動隊の道を切り開く。
ガイアス自身も剣を振るいながら前進していたが、その視線は絶えず前方の一点へ注がれていた。
大きな幕舎の脇、他の団員とは明らかに異なる立ち姿の男が、こちらを静かに見据えている。仮面の目元に走る、青い一本の線。捜し求めていた相手が、ようやく姿を現していた。
「やはり、お前か」
低く呟きながら、ガイアスは目の前の敵を斬り伏せ、その男へ向かって歩を進める。
蒼鷹と呼ばれるその男は、軍刀を静かに構えながら、こちらを見つめ返していた。
「久しいな、ガイアス隊長」
落ち着いた声だった。かつての階級で呼びかけるその響きには、皮肉とも懐旧とも取れる複雑な色が滲んでいる。
「お前が、生きていたとはな」
ガイアスは剣を構え直しながら、感情を押し殺した声で応じた。
「あの戦場で、部隊ごと壊滅したと聞いていた」
「壊滅した。ほとんどはな」
蒼鷹の声には、抑えきれない苦みが混じっていた。
「俺だけが、運良く生き延びた。いや──運が良かったのかどうかは、今となっては分からんが」
その言葉に、ガイアスは僅かに眉を寄せた。
「援軍を送ろうとした。間に合わなかったのは、事実だ」
「知っている」
蒼鷹は静かに頷いた。だが、その声に和らぐ気配はない。
「頭では、分かっているつもりだった。戦況が悪すぎた。援軍を送れば、被害がさらに拡大していたかもしれない。合理的な判断だったと、今でも思う」
軍刀の切っ先が、僅かに揺れる。
「だが、腹の底では、納得できなかった。仲間が死んでいく中、誰も来なかった。その事実だけが、ずっと消えずに残り続けた」
積年の想いが、静かに、しかし確かな熱を持って語られていく。ガイアスはその言葉を、黙って受け止めていた。反論する言葉は、すぐには見つからなかった。
「だから、こちら側に来たのか」
搾り出すように問うと、蒼鷹は僅かに口の端を歪めた。
「王国は、俺たちを見捨てた。ならば、俺もこの国に何も返す必要はない。そう思うようになった」
その言葉を最後に、蒼鷹は軍刀を構え直す。もはや、言葉で通じ合える段階ではないことを、互いに理解していた。
「悪く思うな、ガイアス隊長」
「隊長と呼ぶな」
短く返しながら、ガイアスは剣を握り直した。
「今のお前は、俺の部下じゃない。ただの敵だ」
その一言と同時に、蒼鷹が地を蹴った。
軍刀の一閃が、風を切り裂きながら迫る。ガイアスは半歩身を引きながらそれを受け止め、金属の擦れる鋭い音が、周囲の喧騒を突き抜けて響き渡った。
かつて共に鍛錬を積んだ間柄だったのだろう、太刀筋には見覚えのある癖がいくつも残っている。だが、そこに宿る鋭さは、以前とは比べ物にならないほど研ぎ澄まされていた。
「腕を、上げたな」
呟くように漏らしながら、ガイアスは反撃の一撃を繰り出す。蒼鷹はそれを紙一重で躱すと、すぐさま体勢を立て直し、二の太刀を放ってきた。
打ち合うたびに、二人の間に流れる複雑な感情が、剣先を通して伝わってくるようだった。憎しみだけでも、友情だけでもない。かつての信頼と、埋めがたい断絶とが、幾度となく交差する刃の中に滲んでいる。
「なぜ、俺たちを見捨てたことを、恨むだけで終わらせるんだ」
斬り結びながら、ガイアスは声を絞り出した。
「お前だけじゃない。あの戦場で生き残った奴らは、他にもいたはずだ。そいつらは、恨みを晴らす道を選ばなかった」
「知った風な口を利くな」
蒼鷹の声に、初めて明確な怒気が滲んだ。
「お前に、何が分かる。守るべき部下を全員失って、それでも国のために剣を振るえと言うのか」
激情を込めた一撃が、これまで以上の速さで振り下ろされる。ガイアスはそれを受け止めながら、僅かに体勢を崩された。
土を踏み締め直し、態勢を立て直す。目の前の男の中に渦巻く痛みの深さを、剣越しに確かに感じ取っていた。理屈だけでは、決して埋まらない溝がそこにある。
「分からない」
正直な言葉だった。
「お前が背負ってきたものの重さを、俺が完全に理解することはできない」
剣を構え直しながら、ガイアスは真っ直ぐに蒼鷹を見据えた。
「だが、お前の恨みを晴らすために、これ以上誰かが傷つくのを、黙って見過ごすわけにはいかない」
その言葉と共に、ガイアスは踏み込んだ。剣が鋭く弧を描き、蒼鷹の得物と激しく交差する。火花にも似た金属の擦過音が、二人の間に幾度となく響き渡った。
過去に築かれた信頼と、今この瞬間に交わされる刃。かつての上官と部下という関係の残滓を纏いながら、二人の戦いは、谷間の喧騒の中でなおも続いていく。
その頃、崖の上に辿り着いたシンクレアとオーレリアンは、拠点内部への潜入を果たしていた。ガイアスの起こした陽動によって、旅団の注意は正面へ大きく引きつけられている。その隙を突き、二人はそれぞれの目的地へ向けて、静かに歩を進め始めていた。




