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出陣前夜

決戦の日取りが定まったのは、それから十日ほど経った頃だった。


斥候による追加調査で本拠地の詳細な配置が固まり、奇襲作戦の全容がようやく形を成す。侵入経路、部隊の分担、そして万が一の撤退経路まで、あらゆる可能性を織り込んだ計画書が、ガイアスの手によって完成していた。


出陣を明日に控えたその夜、エルフレイム邸には、これまでとは違う静けさが満ちていた。


各々が最後の準備に追われる中、シンクレアは自室で剣の手入れをしていた。使い込まれた刃を布で丁寧に磨きながら、これまでの戦いの記憶を一つ一つ辿っていく。婚約破棄の日、求婚を受けた瞬間、十二年前の記憶を取り戻した森での出来事。積み重ねてきた日々の全てが、この剣に宿っているような気がした。


扉を叩く音に顔を上げると、姿を見せたのはエメリンだった。


「シンクレア様、少しよろしいでしょうか」


丁寧な口調ながら、その表情には隠しきれない緊張が浮かんでいる。手には大きな包みを抱えていた。


「入れ」


短く答えると、エメリンは静かに部屋へ入り、包みを机の上へ置いた。開かれた布の中には、幾つもの薬瓶と、丁寧に巻かれた包帯が整然と並んでいる。


「これは」


「回復薬と、解毒薬ですわ」


淡々とした口調に、いつもの令嬢らしさとは違う、薬師としての凛とした佇まいが滲んでいる。


「戦場で使えるように、特別に調合いたしました。傷薬も、止血効果を高めたものを多めに用意してございます」


一つ一つの薬瓶を指し示しながら、エメリンは効能と使い方を丁寧に説明していく。その表情には、恋に一喜一憂する普段の姿とは異なる、確かな覚悟が宿っていた。


「無理はしないでくださいませ」


説明を終えたところで、エメリンはふと声を落とした。


「わたくしにできることは、皆様が無事に帰ってこられるよう、後方でお支えすることだけですもの。だからこそ、どうか、生きて戻ってきてくださいませ」


その言葉には、これまで積み重ねてきた友情の重みが滲んでいる。恋敵として意識していた頃とはまるで違う、深い信頼と気遣いだった。


「感謝する」


シンクレアは静かに頷きながら、薬瓶の一つを手に取った。ガラス越しに透ける液体の色が、灯りを受けて淡く輝いている。


「お前の薬が、皆を守る」


その一言に、エメリンの瞳が僅かに潤んだ。堪えるように唇を引き結ぶと、小さく頷き返す。


「必ず、お役に立ててみせますわ」


決意を込めた声が、静かな部屋に響いた。


エメリンが部屋を後にしてしばらくすると、今度はオーレリアンが姿を見せた。既に軍装に身を包み、腰には愛用の剣を佩いている。その表情には、明日への緊張と、確かな覚悟が同居していた。


「準備は」


問いかける声に、シンクレアは机上の薬瓶を見やりながら頷いた。


「万全だ」


短いやり取りの後、オーレリアンは寝台の縁に腰を下ろす。しばらくの沈黙が、部屋の中に流れた。窓の外では、秋の虫たちが変わらぬ調べを奏でている。


「怖いか」


不意に問われた言葉に、シンクレアは剣を鞘へ収めながら、少し考えてから答えた。


「怖い。だが、それ以上に――」


言葉を継ぎながら、シンクレアはオーレリアンの隣へ腰を下ろした。


「終わらせたい、という気持ちの方が強い」


その言葉には、これまで積み重ねてきた戦いの重みが滲んでいる。毒事件、誘拐事件、哨戒所への襲撃。黒狼旅団によってもたらされた数々の脅威に、ようやく終止符を打てる機会が、目前に迫っていた。


オーレリアンは、シンクレアの横顔をしばらく見つめていた。やがて、そっと手を伸ばし、その手を包み込む。


「明日、俺たちは一緒に戦う」


静かな声だったが、そこには確かな決意が込められていた。


「これまでみたいに、背中を預け合って」


その言葉に、シンクレアは小さく頷いた。剣を交わすたびに築き上げてきた連携、互いを信頼する確かな絆。それが、明日の決戦を乗り越えるための、何よりの支えになるはずだった。


「必ず、二人で帰ってこよう」


「ああ」


短く答えながら、シンクレアは握られた手に力を込め返す。灯りの下、二人の影が寄り添うように重なっていた。


窓の外に広がる夜空には、無数の星が瞬いている。明日への不安を抱えながらも、それを上回る決意が、確かに二人の胸に宿っていた。


翌朝、辺境軍の精鋭部隊が、静かに出陣の時を迎える。冷たい朝靄の中、整列した兵士たちの表情には、それぞれの覚悟が滲んでいた。


見送りに立ったエレノアとアルベルトは、無言のまま息子たちを見つめている。レオンとカイルも、留守を預かる立場として、深い眼差しで一行を見送っていた。


キララがシンクレアの傍らに寄り添い、小さく一声鳴く。まるで、これから始まる戦いへの激励のようだった。


「行くぞ」


ガイアスの号令とともに、部隊が動き出す。朝靄を切り裂くように進む隊列の中、オーレリアンとシンクレアは、互いに視線を交わしながら、静かに決意を新たにしていた。


黒狼旅団との決戦は、いよいよその幕を開けようとしていた。


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