動き出す影
機密文書の流出から数日が経った頃、辺境軍の詰所には新たな緊張が走っていた。
王家への報告は既に送られ、王都からの正式な返答を待つ段階に入っている。だが、悠長に構えていられる状況ではなかった。奪われた防衛計画が旅団の手に渡っている以上、これまでの布陣がいつ突かれてもおかしくない。
その朝、詰所に飛び込んできたのは、北方の国境警備を担う前哨基地からの緊急伝令だった。
「報告いたします! 国境沿いの第三哨戒所が、賊の襲撃を受けました!」
息を切らしながら告げる伝令に、作戦室の空気が一変する。地図を広げていたガイアスが、鋭い視線を伝令へ向けた。
「被害の状況は」
「哨戒所の半数が制圧され、備蓄されていた武器と食糧が奪われております。守備兵にも死傷者が出ている模様です」
淡々とした報告の中に、事態の深刻さが滲んでいる。ガイアスは地図上の該当箇所を指で叩き、険しい表情のまま黙り込んだ。
「あの場所は、防衛計画の中でも手薄な地点として記されていたはずです」
カイルが素早く反応する。奪われた文書の内容を思い返しながら、その一致に眉をひそめていた。
「奴らは、盗んだ情報をもう使い始めている」
低く呟くガイアスの声には、確かな苦さが滲んでいる。予想していたとはいえ、実際に被害が出たという事実は、これまで以上の緊張感を作戦室へもたらしていた。
オーレリアンは地図を睨みながら、拳を握り締めていた。
「すぐに、援軍を送るべきです」
丁寧な口調ながらも、そこには抑えきれない焦りが滲んでいる。哨戒所で戦っているであろう仲間たちの姿を思えば、一刻の猶予もないように思えた。
「落ち着け」
ガイアスが短く制する。
「これが、罠である可能性もある。ここで大軍を動かせば、辺境の他の拠点が手薄になる」
冷静な指摘だった。感情に任せて動けば、それこそ旅団の思う壺になりかねない。オーレリアンは奥歯を噛み締めながらも、その言葉に頷かざるを得なかった。
レオンが地図を見つめながら、静かに口を開いた。
「哨戒所への救援は必要だ。だが、規模を見極める必要がある」
次期辺境伯としての判断が、着実に下されていく。感情と冷静さを両立させながら、最善の一手を模索する姿には、家族全体を導く重みが滲んでいた。
「私が、少数精鋭を率いて向かいます」
シンクレアが、静かに手を挙げた。
「機動力を活かせば、大軍でなくとも対処できるはずだ」
その提案に、オーレリアンが素早く反応する。
「俺も行く」
「いや」
シンクレアはすぐに首を横に振った。
「お前は、ここに残れ。もし他の拠点も同時に狙われた場合、迅速に動ける戦力が必要だ」
理に適った判断だった。だが、オーレリアンの表情には、明らかな葛藤が浮かんでいる。
「危険だ」
短く漏らした言葉に、シンクレアは静かに微笑んだ。
「自分の身は、自分で守れると言っただろう」
以前にも交わした言葉だった。それでも、実際に危険な戦場へ向かうとなれば、心配が完全に消えることはない。オーレリアンはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「必ず、無事に帰ってこい」
「約束する」
短いやり取りに、互いへの信頼が確かに滲んでいる。
ガイアスは手早く救援部隊の編成を指示し始めた。腕利きの兵士数名を選出し、迅速に出立できるよう手配を進めていく。シンクレアもまた、剣を確かめながら、出立の準備に取り掛かった。
「気をつけてください」
見送りに立ったオーレリアンが、丁寧な口調で告げる。家族の前とは異なる、シンクレアへ向けたいつもの砕けた響きが、その声には確かに残っていた。
「ああ」
短く答えると、シンクレアは軽く手を振り、救援部隊と共に詰所を後にする。馬蹄の音が遠ざかっていくのを、オーレリアンはしばらくその場に立ち尽くしたまま見送っていた。
窓の外に広がる秋の空は、変わらず澄み渡っている。だが、その平穏な景色の裏側で、黒狼旅団による攻勢は、着実にその輪郭を明らかにしつつあった。
「これが、序章に過ぎないとしたら」
呟くように漏らした言葉に、傍らに立つカイルが小さく頷いた。
「本格的な決戦は、まだこれからということだろう」
その言葉が示す通り、辺境と王都を巻き込む戦いは、ようやくその幕を開けようとしていた。オーレリアンは拳を握り締め、これから訪れるであろう大きな試練への覚悟を、静かに固めていた。




