斥候の夜
翌日から、辺境軍による斥候活動が本格的に始まった。
黒狼旅団の本拠地と目される山岳地帯へ向けて、少数精鋭による偵察部隊が編成される。大規模な動きを見せれば警戒されるとの判断から、あくまで少人数で、目立たぬように情報を集める方針だった。
その日の夕刻、ガイアス自らが指揮を執る偵察隊が、密かに詰所を発った。同行するのは、地形に詳しい古参兵数名と、実戦での判断力を買われたオーレリアンである。シンクレアは念のため詰所に残り、万が一の事態に備えることとなった。
出立の直前、シンクレアはオーレリアンの前に立ち、その顔をじっと見つめていた。
「無理はするな」
短く告げる声には、隠しきれない懸念が滲んでいる。数日前の毒矢の傷は、既に完治しているとはいえ、まだ本調子とまでは言い切れない部分もあった。
「分かってる」
軽く笑いながら答えるオーレリアンに、シンクレアは僅かに眉を寄せた。その笑みの軽さが、かえって不安を煽る。
「本当に、分かっているのか」
念を押すように問い直すと、オーレリアンは表情を改め、真っ直ぐシンクレアを見つめ返した。
「ちゃんと帰ってくる。約束する」
その言葉に、シンクレアはようやく小さく頷いた。差し出された手を握り返すと、温もりが確かに伝わってくる。互いに交わした無言の約束が、出立の緊張の中に静かな安心を残していった。
山道は険しく、日が暮れるにつれて気温も急激に下がっていく。息を吐くたびに白い靄が立ち上り、踏みしめる岩肌の冷たさが、軍靴越しにも伝わってきた。
「この先だ」
先頭を歩くガイアスが、低い声で告げる。捕虜から聞き出した情報を頼りに、旅団の本拠地があるとされる方角へ、慎重に足を進めていた。
木々の合間を縫うように進む一行は、極力音を立てぬよう気を配っている。夜の帳が完全に降りた山中では、僅かな物音が思わぬ危険を招きかねない。オーレリアンもまた、剣の柄に手を添えたまま、油断なく周囲へ視線を配っていた。
やがて、視界が開けた場所へ辿り着いた。
崖の縁に立つと、遥か下方に、松明の灯りがいくつも並ぶ光景が見えた。粗末ながらも整然と並ぶ天幕、見張りらしき人影がいくつも配置されている。これまで漠然としていた黒狼旅団の実態が、初めてその輪郭を現していた。
「本拠地に、間違いなさそうだな」
ガイアスが低く呟きながら、双眼鏡を目に当てる。灯りの配置、見張りの数、そして拠点全体の規模。一つ一つを冷静に観察し、記憶へ刻み込んでいった。
オーレリアンもまた、崖の縁から目を凝らしていた。天幕の数から推測される団員の規模は、噂に聞いていた通り相当なものである。単純な力押しでは、太刀打ちできない相手だった。
「あれを見ろ」
ガイアスが、双眼鏡越しに一点を指し示す。
視線の先には、他の天幕よりも一回り大きな幕舎があった。その入口付近に立つ人影は、これまで見てきた一般の団員とは明らかに佇まいが違っている。
軍人らしい整った立ち姿。仮面の目元には、確かに青い一本線が走っていた。
「あれが、例の幹部か」
オーレリアンの呟きに、ガイアスは無言のまま頷いた。だが、その視線には、単なる敵情視察以上の何かが宿っている。
じっと双眼鏡を覗き込んだまま、ガイアスはしばらく動かなかった。仮面の男が身に纏う立ち姿、剣の帯び方、そして僅かに覗く歩き方の癖。それらの一つ一つが、記憶の奥底にある何かと重なり合っていく。
「兄上」
異変を察したオーレリアンが、静かに声をかけた。
ガイアスは双眼鏡を下ろすと、しばらく無言のまま、崖下の光景を見つめ続けていた。その横顔には、これまで見せたことのない複雑な陰りが浮かんでいる。
「あの立ち姿、見覚えがある」
低く絞り出すような声だった。
「五年前、辺境軍の将校にいた男に、似てる」
その一言に、オーレリアンは僅かに眉を寄せた。
「知ってる人物ですか?」
「ああ」
短く答えたガイアスの声には、重い記憶の気配が滲んでいる。
「ある戦場で、部隊が孤立したことがあった。援軍を出そうとしたが、間に合わなかった。壊滅した部隊の生き残りは、確か数名だけだったはずだ」
言葉を継ぐたびに、その声には苦渋が滲んでいく。
「その中に、あの立ち姿の将校がいた。名前は──蒼鷹と呼ばれていたわけじゃない。当時はまだ、辺境軍の一員だったはずだ」
崖下の幕舎を見つめる目には、複雑な感情が渦巻いている。かつて共に戦った者が、今は敵として立ちはだかっている。その事実の重みを、ガイアスは静かに噛み締めていた。
オーレリアンは、兄の横顔を見つめながら、言葉を選びかねていた。
実戦での剣技には自信があっても、こうした過去の因縁や複雑な感情の機微には、まだ経験が及ばない。それでも、兄が抱える重荷の一端を、少しでも理解しようと耳を傾け続けた。
「見捨てられたと、思い込んでいるのかもしれない」
呟くように告げた言葉に、オーレリアンは静かに耳を傾ける。
「エルフレイム家も、救援を送ろうとしたはずだよな」
「ああ、送った」
ガイアスの声には、確かな苦みが滲んでいた。
「だが、間に合わなかった。あの時の戦況を思えば、仕方のないことだったと、頭では分かってる。だが──」
言葉が、そこで途切れる。頭で理解していることと、当事者が抱く感情との間には、埋めがたい溝があるのかもしれない。
「もし、あれが本当にあの男なら」
ガイアスは崖下を見据えたまま、静かに続けた。
「王国への恨みは、根が深い。単なる敵として片付けられる相手じゃないかもしれん」
その言葉には、これから訪れるであろう戦いへの、確かな覚悟と、同時に拭いきれない痛みが滲んでいた。
オーレリアンは、崖下に立つ仮面の男を、もう一度見つめた。仲間を失い、王国に裏切られたと信じ込んだ末に、復讐の道を選んだ者。その背景を知った今、単純な敵味方の構図だけでは語れない複雑さが、静かに浮かび上がっていた。
「戻るぞ」
ガイアスが、双眼鏡を懐へしまいながら告げる。
「今夜得た情報は、貴重なものだ。だが、これ以上長居は危険だ」
その声には、いつもの冷静さが戻っている。感情を押し殺し、指揮官としての役割を全うしようとする姿勢が、そこには確かにあった。
一行は音を立てぬよう、来た道を静かに引き返し始める。夜風が木々の間を吹き抜け、遠くから梟の鳴き声が響いていた。
崖を離れる直前、オーレリアンはもう一度だけ振り返った。松明の灯りに照らされる幕舎の中、青い一本線の仮面が、闇の中で静かに佇み続けている。
これから訪れるであろう戦いの中で、兄があの男と対峙する時が来るのかもしれない。単なる敵としてではなく、深い過去を背負った一人の人間として。その予感を胸に抱きながら、オーレリアンは山道を下り始めた。
夜の静寂の中、一行の足音だけが、静かに山肌へ吸い込まれていった。
詰所へ戻る頃には、夜も更けきっていた。
門をくぐると、灯りの点いた一室の窓辺に、人影が佇んでいるのが見える。オーレリアンが歩み寄ると、シンクレアが静かにこちらを振り返った。
「帰ったか」
短い一言だったが、その声には、抑えきれない安堵が滲んでいる。
「ああ、約束通りだろ」
軽く笑いながら答えるオーレリアンに、シンクレアはようやく肩の力を抜いた。
「収穫は」
問いかける声に、オーレリアンは表情を引き締める。
「本拠地の位置は掴めた。それと……気になることも」
詳しい報告は、明日改めて行うことになるだろう。それでも今この瞬間だけは、互いの無事を確かめ合う時間を優先したかった。
「疲れただろう」
シンクレアがそっと手を伸ばし、オーレリアンの頬に触れる。冷え切ったその肌の感触に、僅かに眉をひそめた。
「お前も、待っててくれたんだな」
「当然だ」
素っ気ない返答だったが、その手はまだ頬に添えられたままだった。夜の静寂の中、二人はしばらくその場に立ち尽くし、互いの存在を確かめ合っていた。
黒狼旅団という影は、着実にその輪郭を明らかにしつつある。だが、それに立ち向かう者たちの絆もまた、一夜ごとに深まりを見せていた。




