王都からの報せ
詰所の一室に足を踏み入れると、旅装のまま片膝をついた使者の姿があった。
土埃に汚れた外套からは、長距離を急いで駆けてきたことが窺える。息はまだ整いきっておらず、額には玉のような汗が浮かんでいた。
ローゼンタール公爵家の紋章が刺繍された胸元を見た瞬間、シンクレアの胸に鋭い緊張が走る。
「面を上げろ」
ガイアスの声に、使者はゆっくりと顔を上げた。疲労の色濃い表情の中に、それでも隠しきれない切迫感が滲んでいる。
「シンクレア様に、火急の報せがございます」
震える声で告げられた言葉に、シンクレアは無言のまま先を促した。
「三日前の夜、公爵邸の裏庭に、何者かが侵入いたしました」
その一言だけで、部屋の空気が一気に張り詰める。
「幸い、警備の者が異変に気づき、大事には至りませんでした。しかし──」
使者は一度言葉を切り、懐から一枚の布を取り出した。丁寧に折り畳まれたそれを広げると、そこには見覚えのある意匠が描かれている。
黒い狼をかたどった紋章だった。
「侵入者が落としていったものです。旦那様が、これは只事ではないと判断され、シンクレア様へ真っ先にお伝えするようにと」
震える手で差し出された布切れを、シンクレアは受け取った。指先に伝わる布の感触が、これまでの推測を裏付ける確かな証拠となって胸に迫ってくる。
「侵入者は捕らえたのか」
問いかけに、使者は力なく首を横に振った。
「逃げられました。ですが、警備の者が交わした際、はっきりとこの紋章を目にしております」
黙って聞いていたガイアスが、腕を組んだまま低く唸った。
「やはり、王都まで手を伸ばしてるってことか」
苦々しい声だった。単なる辺境の脅威では済まされない事態が、着実に現実味を帯びつつある。
シンクレアは布切れを握り締めたまま、しばらく動かなかった。脳裏に浮かぶのは、王都に残してきた家族の顔だった。父も、母も、兄も、皆それぞれの立場で公爵家を支えている。
もし本当に黒狼旅団の魔手が伸びているのだとすれば、彼らの身にも危険が及びかねない。
「他に、何か分かっていることは」
抑えた声で問うと、使者は記憶を辿るように視線を彷徨わせた。
「侵入者は、公爵邸の書庫を狙っていた様子だとのことです。何かを探していたのか、書棚の一部が荒らされておりました」
書庫という言葉に、シンクレアは僅かに眉を寄せる。金品でも武器でもなく、書庫を狙う理由。そこには、何らかの情報を求める意図が透けて見えた。
「奪われたものは」
「幸い、旦那様が確認した限りでは、何も持ち去られてはいないとのことです」
その報告に、僅かながら安堵の息が漏れる。だが、油断はできなかった。未遂に終わったとはいえ、狙われたという事実そのものが、新たな脅威の兆候である。
オーレリアンは、シンクレアの傍らでその横顔をじっと見つめていた。表情こそ大きく動いてはいないものの、握り締めた拳の強さに、内に秘めた動揺が滲み出ている。
「実家に、戻るか」
静かに問いかけた声に、シンクレアはゆっくりと首を横に振った。
「今すぐには、動けない。ここでの任務もある」
理性的な判断だった。だが、その声には、拭いきれない葛藤も滲んでいる。
「それに」
シンクレアは布切れを丁寧に折り畳みながら続けた。
「父上は、それなりに手を打っているはずだ。むしろ、私が今動けば、旅団に付け入る隙を与えることになりかねない」
冷静な分析だったが、そこには家族を思う気持ちが確かに込められている。感情に流されるのではなく、状況を見極めた上での判断こそが、今できる最善の対応だった。
ガイアスは、腕を組んだまま地図へ視線を落とす。
「王都と辺境、両方に手を伸ばしてるとなると、旅団の狙いはもっと大きなものかもしれない」
低く呟く声には、これまで以上の警戒が滲んでいた。
「単に辺境伯家を狙ってるだけじゃない。王国そのものを揺るがすつもりなのかもな」
その言葉に、部屋の中に沈黙が広がる。誰もが、これまで想定していた以上の脅威の輪郭を、静かに感じ取っていた。
シンクレアは使者へ向き直り、静かに告げた。
「王都へ戻ったら、父上へ伝えてほしい。私はここで、辺境から旅団の動きを追う。何か新しい動きがあれば、すぐに知らせるようにと」
「かしこまりました」
深く頭を下げた使者に、ガイアスが休息と食事を手配するよう指示を出す。疲れ切った様子の使者は、丁重な礼を述べながら部屋を後にしていった。
残された三人の間に、重い沈黙が流れる。
「大丈夫か」
オーレリアンが、心配そうにシンクレアの顔を覗き込んだ。
「ああ」
短く答えながらも、その声には隠しきれない緊張が滲んでいる。オーレリアンはそっと手を伸ばし、シンクレアの肩へ触れた。
「お前の家族も、俺の家族も、必ず守る」
真っ直ぐな眼差しで告げられた言葉に、シンクレアは静かに頷いた。
窓の外では、秋の陽が傾き始めている。黒狼旅団の影は、確実にその範囲を広げつつあった。王都と辺境、二つの拠点を同時に脅かす脅威に対して、これからどう立ち向かうべきか。その答えを見出すためにも、一刻も早い情報収集が求められていた。
ガイアスは地図を丸めながら、静かに告げる。
「これから忙しくなるぞ。覚悟しておけ」
その言葉に、シンクレアとオーレリアンは、互いに視線を交わしながら頷いた。迫りくる困難への緊張を胸に抱きながらも、二人の間には、それに立ち向かうための確かな絆が、着実に根を張り始めていた。




