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新しい約束

翌朝、エルフレイム邸には清々しい秋の陽射しが降り注いでいた。


昨夜の出来事の余韻を残したまま、シンクレアは自室で身支度を整えていた。鏡に映る自分の顔を見つめながら、包帯の上から軍装を丁寧に着込んでいく。脇腹の傷はまだ僅かに疼いたが、動きに支障をきたすほどではない。今日から通常の任務へ復帰する予定だった。


窓の外からは、既に朝の訓練を始めている兵士たちの掛け声が微かに聞こえてくる。乾いた土の匂いと、遠くから漂う朝餉の香りが、いつもと変わらぬ一日の始まりを告げていた。


鏡越しに、昨夜の記憶がふと蘇る。


触れた唇の感触、真っ赤に染まったオーレリアンの顔、そして自分でも制御しきれなかった、あの意地悪な笑み。思い返すたびに、頬の奥がじわりと熱を持ち始める。それを誤魔化すように、シンクレアは軽く頭を振った。


剣を腰に佩き、身支度を終えたところで、扉を叩く音が響く。


「入るぞ」


応えを待たずに顔を出したのは、オーレリアンだった。既に軍装に身を包み、昨日までの弱々しさは見る影もない。頬には血色が戻り、金色の瞳にもいつもの快活さが宿っていた。


「体調は」


問いかける声には、これまでのそわそわとした落ち着きのなさが、幾分か薄れている。それでも視線がちらちらとシンクレアの脇腹へ向けられるのは、変わらぬ心配の表れだった。


「問題ない」


短く答えながら、シンクレアは軽く肩を回してみせる。動きに大きな支障はなく、剣を振るうことにも差し支えなさそうだった。


「そうか」


安堵の滲む声で頷くと、オーレリアンは部屋の中へ足を踏み入れる。だが、昨日の一件を思い出したのか、その足取りには僅かなぎこちなさが残っていた。


しばらくの沈黙が、二人の間に流れる。互いに何かを言いたそうにしながらも、言葉が見つからない。窓の外から響く訓練の掛け声だけが、その静寂を埋めていた。


「あの」


先に口を開いたのはオーレリアンだった。


「昨日の、その……」


言い淀む様子に、シンクレアは片眉を僅かに上げる。


「昨日が、何だ」


とぼけるような口調に、オーレリアンの頬が僅かに赤らんだ。


「その、キスのことだよ」


観念したように告げた声には、恥じらいと、それでも確かめずにはいられない切実さが滲んでいる。


「あれは、その……本気、だったのか」


問いかける金色の瞳は、真っ直ぐこちらを見据えていた。冗談やその場の勢いで片付けられてしまうことを恐れているような、そんな不安が奥に揺れている。


シンクレアはしばらく黙ったまま、その視線を受け止めていた。


昨夜、衝動的に唇を重ねたあの瞬間を思い返す。オーレリアンの戸惑う顔を見て、意地悪な気持ちが働いたことは否定しない。だが、それだけではなかった。


看病に付き添った夜、眠れぬまま浅い呼吸を繰り返す姿を見つめ続けた時間。毒矢に倒れた瞬間、名を叫んだ自分の声。そうした記憶の一つ一つが、確かな実感を伴って積み重なっている。


「本気だ」


短く、けれど迷いのない答えだった。


その一言に、オーレリアンの表情が瞬く間に緩んでいく。安堵と喜びが入り混じった笑みが、頬いっぱいに広がった。


「そっか」


短く呟くと、オーレリアンは照れくさそうに頭を掻いた。それ以上の言葉を続けることはなかったが、その表情だけで、十分に想いは伝わっている。


しばしの沈黙のあと、オーレリアンはふと真剣な面持ちへ戻る。


「今日から、また一緒に戦場に立つことになる」


窓の外へ視線を向けながら、静かに続けた。


「黒狼旅団は、まだ終わってない。これからも、危険なことは続くと思う」


その言葉には、これまでの出来事を経て芽生えた、確かな覚悟が滲んでいた。


「だから」


視線をシンクレアへ戻し、オーレリアンは真っ直ぐに告げる。


「お互い、無事に帰ってこような」


シンプルな一言だったが、そこには夫婦として、そして戦友としての、揺るぎない約束が込められている。


シンクレアは静かに頷いた。


「ああ」


短い答えに、二人の間に流れる空気が、確かな絆で結ばれていく。剣を持つ者同士、互いの背中を預け合える関係が、この短いやり取りの中に確かに刻まれていた。


扉の外から、キララの鳴き声が響いてくる。出立の準備を促すような、元気な一声だった。


「そろそろ、行くか」


オーレリアンが軽く笑いながら、扉へ向かって歩き出す。シンクレアもそれに続きながら、腰の剣の感触を確かめた。


廊下へ出ると、朝の光が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしている。前を歩くオーレリアンの背中を見つめながら、シンクレアは静かに息を吐いた。


昨夜交わした触れるだけの口づけの余韻は、まだ胸の奥に残っている。それでも、今この瞬間に大切なのは、共に前へ進むこと。夫婦として、戦友として、これから訪れるであろう困難に、二人で立ち向かっていく覚悟だった。


玄関先では、既に出立の準備を終えたキララが、尾を振りながら待っている。その傍らには、見送りに出てきたエレノアやアルベルトの姿もあった。


「気をつけて行ってらっしゃい」


エレノアの声に送られながら、シンクレアとオーレリアンは、朝の陽射しの中を歩き出す。二人の後ろを、キララが軽やかな足取りでついていった。


黒狼旅団との戦いは、まだ終わっていない。それでも、この日の朝に交わした約束が、これから訪れる困難を乗り越えるための、確かな支えとなっていくはずだった。


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