意地悪なキス
安静を言い渡された一日、エルフレイム邸の一室には、穏やかな昼下がりの陽射しが差し込んでいた。
窓辺のカーテンが秋風に揺れ、暖かな光が絨毯の上へ柔らかな影を落としている。ソファに腰掛けたシンクレアは、包帯の巻かれた脇腹をそっと押さえながら、静かに窓の外を眺めていた。
庭木の葉が色づき始め、時折落葉が風に舞う様子が、硝子越しに見て取れる。
昨夜の戦闘から一夜が明け、傷の痛みはまだ完全には引いていない。それでも、命に関わるほどの深手ではなかったことが、せめてもの救いだった。侍医の見立てでは、明日には通常の生活に戻れるだろうとのことである。
オーレリアンもまた、隣の椅子に腰掛けながら、落ち着きなく指先を動かしていた。
先日の毒による発熱はすっかり治まり、頬にも本来の血色が戻っている。明日には辺境軍への復帰も問題ないと診断されていた。それでも今のオーレリアンの様子には、体調とは別種の落ち着かなさが滲んでいる。
視線が幾度となくシンクレアの脇腹へ向けられては、すぐに逸らされる。何かを言いかけては口を噤み、また視線を彷徨わせる。その繰り返しに、シンクレアは横目でちらりと様子を窺った。
「さっきから、何をそわそわしている」
問いかけに、オーレリアンはびくりと肩を震わせた。
「い、いや……別に」
歯切れの悪い返答だった。誤魔化そうとする素振りが、かえって落ち着きのなさを露呈させている。
「大丈夫だと言っただろう」
短く告げるシンクレアの声には、いつもの淡々とした調子があった。だが、それだけではオーレリアンの様子は変わらない。
「大丈夫って言われても……」
ようやく言葉を継ぐと、オーレリアンは眉根を寄せた。
「女の子の身体に傷がつくなんて、やっぱり気になる」
その一言には、隠しきれない心配が込められていた。剣を握る妻を持つ覚悟を決めていたはずなのに、実際に負傷した姿を目の当たりにすると、頭では割り切れない感情が押し寄せてくるらしい。
シンクレアは小さく息を吐いた。
「軍に所属している以上、このくらいは当たり前だ」
淡々とした返答だったが、そこには剣士としての矜持が滲んでいる。傷を負うことも、それを恐れないことも、剣を選んだ者としての覚悟の一部だった。
「それは、分かってるけど」
言い淀んだオーレリアンの表情には、それでも消えない葛藤が浮かんでいる。頭で理解していることと、心が感じることが、必ずしも一致するわけではなかった。
しばらくの沈黙が、二人の間に流れる。窓の外を渡る風の音だけが、部屋の静けさを埋めていた。
「聞いたぞ」
不意に、オーレリアンが口を開いた。
「俺が毒矢に当たった時、お前がすごく心配してたって。エメリンから聞いた」
その一言に、シンクレアの表情がほんの僅かに強張る。看病していた間の様子を、エメリンが漏らしていたのだろう。眠れぬ夜を過ごしながら傍を離れなかった事実を、今更ながら本人へ知られてしまった気恥ずかしさが、胸の奥にじわりと広がった。
「別に、大したことじゃない」
平静を装おうとする声には、僅かな動揺が滲んでいる。だが、その反応こそが、雄弁に何かを物語っていた。
オーレリアンはしばらくシンクレアの横顔を見つめていたが、やがて意を決したように立ち上がり、隣へ移動する。ソファの座面が軽く沈み込む音とともに、二人の距離が一気に縮まった。
腕がゆっくりと伸び、シンクレアの肩を包み込むように抱き寄せる。傷に触れないよう気遣いながらも、その抱擁には確かな力が込められていた。
「不謹慎だけど」
耳元で囁かれた声には、これまでの落ち着きのなさとは違う、静かな真剣さがあった。
「お前が俺のことを、そんなに心配してくれてたって知って……嬉しかった」
素直な一言だった。飾ることも隠すこともない、まっすぐな想いがそのまま言葉になっている。
シンクレアは何も答えなかった。ただ、抱き寄せられた腕の中で、いつもと変わらない無表情を保ち続けている。だが、その内側では、鼓動が僅かに速さを増していた。
しばらくそのまま抱き合っていたが、やがてオーレリアンは少し身を離すと、シンクレアの顔を覗き込んだ。金色の瞳が、間近から真っ直ぐこちらを見つめている。
そして、何の前触れもなく、その唇が頬へそっと触れた。
柔らかな感触が一瞬だけ肌を掠め、すぐに離れていく。突然の口づけに、シンクレアは思わず目を見開いた。頬に残る温もりが、じわりと熱を持ち始める。
「イイ顔」
からかうような笑みを浮かべながら、オーレリアンが囁いた。
その一言に、シンクレアの頬が瞬く間に赤く染まっていく。動揺を押し隠そうとするように、眉間へ僅かな皺が寄った。
「な──」
言葉に詰まりながらも、湧き上がる羞恥と、それを上回る意地が、胸の奥でせめぎ合う。赤らんだ顔のまま、シンクレアはしばし黙り込んでいた。
「そうだな……」
やがて、独り言のように呟く。
「年上の私が、リードすべきだな」
その声には、これまでにない色が滲んでいた。動揺を吹っ切るように、あるいは意地を通すように、シンクレアはゆっくりと手を伸ばす。
オーレリアンの襟元を掴み、そのまま自分の方へ引き寄せた。
不意を突かれたオーレリアンが小さく息を呑む間もなく、シンクレアの唇が、その唇へそっと押し当てられる。触れるだけの、ほんの一瞬の口づけだった。
離れた瞬間、オーレリアンの目が、これ以上ないほど大きく見開かれていた。
数秒の間、身動き一つ取れないまま硬直している。頬が見る間に赤く染まり、耳の先まで熱を帯びていった。口を開こうとしても、まともな言葉にならない。
「う、あ……その」
意味を成さない音だけが、掠れた喉から漏れ続けている。
その様子を見つめながら、シンクレアはゆっくりと口の端を持ち上げた。
「イイ顔だな」
先ほどの意趣返しとばかりに、意地悪く微笑む。淡々とした表情の下に隠れていた茶目っ気が、僅かにその口元から覗いていた。
「シンク、っ……!」
我に返ったオーレリアンが、慌てて腕を伸ばし、再び抱きしめようとする。
だが、その腕が空を切った。
シンクレアは既にソファから立ち上がり、するりとその手をかわしていた。空振りに終わった腕を、オーレリアンは呆然と見つめる。
「所用を思い出した」
素っ気なく告げると、シンクレアは扉へ向かって歩き出す。
「お前は、明日に備えて寝てろ」
それだけを言い残し、シンクレアは静かに部屋を後にした。
扉が閉まった直後、部屋の中から叫び声が響き渡る。
「そんなんアリかよ〜〜〜〜!!!!」
悲鳴のような声が、廊下にまで漏れ聞こえてきた。
長い廊下を一人で歩きながら、シンクレアはそっと自分の唇に指先を触れさせる。先ほどの感触が、まだ確かに残っていた。
頬に灯る熱は、一向に冷める気配を見せない。表情こそいつもと変わらぬ無表情を保っていたが、その顔は、耳の先まで赤く染まっていた。
窓から差し込む午後の光が、廊下を静かに照らしている。振り返ることなく歩を進めながら、シンクレアは込み上げてくる感情を、静かに噛み締めていた。
これ、二人のファーストキスなんですよね(^_^;)




