掠めた刃
牢の扉を破り、エメリンを外へ連れ出した瞬間、周囲の空気が一変した。
坑道の奥から新たな足音が幾重にも重なり合い、次々と黒い仮面の男たちが姿を現す。
先ほど倒した見張りとは比べ物にならない数だった。松明の乏しい灯りを受けて、抜き放たれた刃が幾つも鈍く光っている。
「囲まれた」
シンクレアは短く呟き、エメリンを背後へ庇うようにして剣を構え直した。壁を背にする形で立ち位置を変え、退路を確保しながら、迫りくる敵の数を素早く見積もる。五人、いや、六人はいる。
「わたくしは……」
震える声を上げかけたエメリンを、シンクレアは片手で制した。
「動くな。私の後ろにいろ」
言い切ると同時に、正面の男が斬りかかってきた。振り下ろされる刃を受け流し、返す刀で相手の脇を斬り裂く。呻き声とともに崩れ落ちるその隙に、シンクレアは素早く体勢を立て直した。
だが、敵はまだ複数残っている。左右から同時に迫る二つの影に、シンクレアは瞬時に判断を迫られた。
エメリンを背に庇いながらでは、通常の動きが取れない。守るべき者の存在が、剣筋に確かな制約を課していた。
右から突き出された槍を横へ払い、左の敵の斬撃を身を捻って躱す。だが、庇った身体の分だけ回避が遅れ、刃の切っ先が僅かに肩口を掠めた。布地が裂ける感触と共に、鋭い痛みが走る。
「シンクレア様──」
悲鳴のような声を上げるエメリンへ、シンクレアは振り返らずに答えた。
「かすり傷だ。心配するな」
強がりではなかった。実際、傷は浅い。それよりも、目の前で次々と繰り出される攻撃を捌くことに、全神経を集中させなければならなかった。
三人目の敵が距離を詰めてくる。低い姿勢からの斬り上げは、鋭く、速い。シンクレアはそれを剣で受け止めながら、エメリンを庇うため半歩後ろへ下がった。その隙を突くように、四人目が横合いから斬りかかってくる。
完全に回避する猶予はなかった。
エメリンを守る位置を崩さないまま、シンクレアは咄嗟に身体を捻る。刃の軌道を最小限に逸らすことはできたが、切っ先が脇腹を掠めた。灼けるような痛みが走り、薄い布地に赤い染みが広がっていく。
「く……っ」
短い呻きを漏らしながらも、シンクレアは足を止めなかった。傷の痛みを押し殺し、体勢を立て直すと、目の前の敵へ鋭い一撃を返す。刃が肩口を捉え、相手は悲鳴とともに崩れ落ちた。
「シンクレア様、お怪我が──」
「喋るな。舌を噛むぞ」
短く遮る声には、余裕のなさが滲んでいる。それでも、剣を握る手に迷いはなかった。守るべき者を背に、次から次へと迫る敵を、一つずつ確実に退けていく。
脇腹の傷から流れる血が、着衣を赤く染めていくのが分かった。動くたびに走る痛みが、意識の端を鋭く刺す。それでも、後退するわけにはいかなかった。ここで足を止めれば、背後のエメリンにまで刃が及ぶ。
五人目の敵が、じりじりと間合いを詰めてきた。仮面の奥から覗く目には、明らかな殺気が滲んでいる。
シンクレアは剣を構え直し、痛みに耐えながら呼吸を整えた。額に滲む汗が頬を伝い落ちる。視界の端が僅かに揺らぐのを感じながらも、集中を切らすことはできなかった。
その時だった。
「がうっ!」
鋭い咆哮とともに、白い影が敵の背後から飛び出す。キララだった。牙を剥き出しにして敵の腕へ食らいつくと、驚いた男の体勢が大きく崩れる。その隙を逃さず、シンクレアは踏み込み、確実な一撃を叩き込んだ。
崩れ落ちる敵を横目に、残る敵は数を減らしつつあった。折しも坑道の奥から駆けつけたガイアスと兵士たちが、残りの敵へ次々と斬りかかっていく。
「シンクレア、無事か!」
ガイアスの声に振り返る間もなく、シンクレアは最後の敵へ剣を振るった。刃が交差する音とともに、相手の得物が弾き飛ばされる。膝をついた敵を、駆けつけた兵士がすかさず取り押さえた。
戦闘が静まると、シンクレアはようやく片膝をつく。脇腹の傷から流れる血が、止まる気配を見せずに滴り落ちていた。
「シンクレア様!」
エメリンが悲鳴を上げながら駆け寄ってくる。震える手で傷口を確かめようとするその指先には、薬師としての冷静さが滲んでいた。恐怖に強張っていた表情が、瞬時に切り替わる。
「動かないでくださいませ。今すぐ、止血を」
てきぱきとした口調で告げながら、エメリンは自らの上着を脱ぎ、素早く裂いて布を作った。震えていたはずの手が、傷の手当てとなると迷いなく動いていく。
「大丈夫だ、これくらいは」
「大丈夫ではございません」
きっぱりと遮る声には、有無を言わせない強さがあった。傷口へ布を押し当てながら、エメリンは険しい表情でシンクレアを見上げる。
「わたくしを守るために、負った傷ですわ。せめて、手当てくらいはさせてくださいませ」
その言葉に、シンクレアは小さく息を吐いた。抵抗する気力も薄れていく中で、丁寧に巻かれていく布の感触だけが、確かな温もりとして伝わってくる。
キララが心配そうに顔を覗き込み、鼻先をシンクレアの頬へそっと擦り寄せた。その仕草に、彼女は僅かに口元を緩める。
「心配をかけたな」
「わふ……」
呟くように告げた声に、キララは小さく鳴いて答えた。
坑道の入口では、駆けつけた兵士たちが残りの敵を確保し終えていた。ガイアスが険しい表情のまま歩み寄り、シンクレアの傷を一瞥する。
「動けるか」
「ああ、問題ない」
強がりを込めた返答に、ガイアスは僅かに眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。今は一刻も早く、この場を離れることが優先される。
エメリンの手当てを受けながら、シンクレアはゆっくりと立ち上がった。脇腹の痛みはまだ鈍く残っていたが、歩けないほどではない。月明かりの下、無事に救出できたエメリンの姿を確かめながら、シンクレアは静かに安堵の息をついた。
冷たい夜風が傷口へ触れるたび、鋭い痛みが走る。それでも、守るべきものを守り抜けたという確かな実感が、その痛みをどこか誇らしいものへと変えていた。




