廃坑の闇
森を抜けた先に広がる廃坑は、月明かりすら届かぬ深い闇に沈んでいた。
かつて鉱石を採掘していたという坑道の入口は、蔦と苔に覆われ、朽ちた木材が崩れかけた支柱を今にも手放しそうに支えている。冷えた岩肌から滲み出る水滴が、時折ぽたりと音を立てて落ち、じめついた空気には錆と土の匂いが濃く漂っていた。
隊列を率いるガイアスは、坑道の入口手前で片手を上げ、兵士たちの足を止めさせる。松明の炎を落とし、代わりに闇に目を慣らしながら、その奥に潜む気配を探った。
「見張りがいる」
低く囁かれた声に、シンクレアは剣の柄へ手を添える。目を凝らせば、坑道の入口付近に、黒い仮面を着けた人影が二つ、松明も持たずに佇んでいるのが見えた。闇に紛れて気配を殺す様子は、素人の仕業ではない。
キララが、シンクレアの傍らでそっと身を低くした。
耳を伏せ、鼻先を絶えず動かしながら、風に乗る匂いを注意深く探っている。白い毛並みが夜闇に淡く浮かび上がり、黒い瞳だけが鋭い光を宿していた。
合図を送ると、キララは音もなく茂みへ滑り込む。しなやかな身のこなしで死角から回り込み、見張りの背後へと迫っていった。
一人目の見張りが異変に気づいた時には、既に遅かった。
「わうっ」
短い咆哮とともに、キララが跳躍する。白い体躯が闇を切り裂き、見張りの喉元へ鋭い爪を振るった。声を上げる間もなく崩れ落ちるその身体を、続けざまに現れたシンクレアが手早く縄で拘束する。
もう一人の見張りが異変を察して振り返ろうとした瞬間、既にガイアスの拳がその顎を捉えていた。鈍い音とともに膝から崩れ落ちる姿を、控えていた兵士たちが素早く取り押さえる。
一連の動きは、驚くほど静かに完了した。悲鳴一つ響かせることなく、坑道の入口を制圧する。
「奥へ」
ガイアスの合図に、一団は闇の坑道へと足を踏み入れた。
内部は思いのほか広く、いくつもの坑道が枝分かれしている。壁面には錆びついた燭台がまばらに掛けられ、乏しい灯りが石壁へ揺らめく影を落としていた。奥から響いてくるのは、複数の話し声と、金属の触れ合う音である。
キララが再び先頭に立ち、鼻先を絶えず動かしながら道を選んでいく。エメリンの残り香を辿っているのだろう、迷いのない足取りで奥へと進んでいった。
やがて辿り着いたのは、坑道の最奥にある広間だった。
朽ちた木箱や壊れた採掘道具が積み上げられた空間の中央、簡易的な牢が組まれている。その格子の向こうに、力なく座り込む小さな影があった。
「エメリン」
シンクレアが小さく呼びかけると、影がゆっくりと顔を上げる。乱れた髪、疲労の色濃い顔立ち。それでも、その青い瞳には、まだ確かな意志の光が残っていた。
「シンクレア……様」
掠れた声で名を呼んだエメリンの表情に、驚きと安堵が同時に浮かぶ。
牢の前には、黒狼の仮面をつけた見張りが数名、槍を手に警戒していた。物音を聞きつけたのだろう、こちらへ一斉に視線を向けてくる。
「賊は、俺たちが引き受ける」
ガイアスが低く告げ、抜刀した剣を構えた。兵士たちも一斉に武器を構え直す。
「シンクレア、お前はエメリン嬢を頼む」
短い指示に頷き、シンクレアは牢へ向かって走り出した。
その進路を阻むように、見張りの一人が槍を突き出してくる。シンクレアは半歩身を捻ってそれを躱すと、流れるような動作で相手の懐へ潜り込み、鋭い一撃を叩き込んだ。
キララもまた、牙を剥き出しにして別の見張りへ襲いかかる。水色の紋様が仄かな光を帯び、素早い動きで敵の足元を狙い、体勢を崩させていった。その隙を突いて、後続の兵士たちが確実に賊を制圧していく。
牢の前まで辿り着いたシンクレアは、格子に取り付けられた錠前へ剣を振り下ろした。金属の弾ける音とともに錠前が砕け散り、扉が軋みながら開いていく。
「立てるか」
差し伸べた手に、エメリンは震えながらも縋り付いた。
「歩けますわ……」
気丈に答える声には、それでも隠しきれない疲労が滲んでいる。薬師として鍛えられた精神力だろう、拘束された恐怖の中でも、意識を保ち続けていたことが窺えた。
シンクレアはエメリンの肩を支えながら、牢の外へと連れ出す。周囲では、まだ賊との交戦が続いていた。剣戟の音と怒声が坑道内に反響し、乏しい灯りの下で影が激しく揺れ動いている。
キララが一際大きく吠え、新たに現れた敵の注意を引きつけた。
「わうっ!」
鋭い咆哮が坑道内に響き渡ると同時に、白い体躯が跳躍し、敵の得物を弾き飛ばす。その隙にガイアスが接近し、瞬時に相手を打ち倒した。連携の取れた動きは、まるで一つの意志を持つかのように滑らかだった。
やがて、坑道内に残っていた賊たちは、次々と制圧されていく。統率を失った残りの者たちは、劣勢を悟ったのか、坑道の奥へと逃げ去っていった。
戦闘の喧騒が静まり返ると、シンクレアはエメリンを支えたまま、坑道の入口へ向けて歩き出す。
「もう、大丈夫だ」
静かに告げた声に、エメリンは肩を震わせた。張り詰めていた緊張が、ようやく緩み始めているのだろう。支えられた腕に、力なく体重を預けてくる。
坑道を抜けると、夜空には無数の星が瞬いていた。冷たい夜風が頬を撫で、木々の匂いが肺の奥まで染み渡る。生きて外の空気を吸えることの実感が、じわじわとエメリンの胸へ広がっていった。
キララが駆け寄り、エメリンの足元へ鼻先を擦り寄せる。その温もりに、彼女はようやく小さく笑みを零した。
「ありがとう……ございます」
震える声で紡がれた感謝の言葉に、シンクレアは静かに頷く。月明かりの下、無事に取り戻された命の重みを噛み締めながら、歩き出した。




