託された想い
深夜のエルフレイム邸、寝室の窓には未だ月明かりが淡く差し込んでいた。
昼間の報せを受けてから、館の空気は張り詰めたまま緩む気配を見せない。侍医が処方した薬湯の匂いが微かに漂う寝室で、オーレリアンは寝台の縁に手をつき、無理やり身体を起こそうとしていた。
先日の毒矢による発熱は、まだ完全には引いていない。額には薄っすらと汗が浮かび、頬にはやつれた影が落ちていた。それでも、じっとしていられる状況ではなかった。
「俺も行く」
掠れた声で告げると、オーレリアンは寝台から足を下ろそうとする。だが、力の入らない膝が僅かに震え、体勢を崩しかけた。
咄嗟に手を伸ばしたのはシンクレアだった。傾いだ身体を支えながら、そのまま寝台へ押し戻す。
「まだ熱が下がってない」
淡々とした声だったが、有無を言わせない強さが滲んでいる。
「その状態で戦場に立てば、足手纏いになるだけだ」
言葉の刃は鋭かったが、そこに込められているのは冷淡さではなく、確かな気遣いだった。オーレリアンはその声を受け止めながら、悔しさに顔を歪める。剣を握る腕には自信があっても、まともに立つことすらままならない今の身体では、戦力になるどころか守られる側へ回ってしまう。それが何よりも堪えた。
「いいから、寝てろ」
短く告げると、シンクレアは寝間着の襟元を整え直す。無骨な手つきだったが、その動作には、これ以上の反論を許さない静かな意志が込められていた。
「だけど……」
食い下がろうとする声を、シンクレアは真っ直ぐな眼差しで受け止める。
「エメリンだけじゃない。お前のことも、心配してる」
搾り出すような声だった。掠れた喉から言葉を継ぐたびに、僅かな咳が漏れる。
「黒狼旅団の連中は、容赦がない。もし戦場でお前に何かあったら──俺は」
続く言葉は、そこで途切れた。想像するだけで胸の奥が締め付けられるのだろう、金色の瞳には隠しきれない不安が揺れている。エメリンの救出だけでなく、シンクレア自身の身にも危険が及ぶかもしれない。その両方への懸念が、弱った身体をなおのこと重くしていた。
シンクレアは寝台の傍らに腰を下ろし、震える手をそっと包み込んだ。剣を握り続けてきた硬さの残る指先が、熱を帯びたオーレリアンの手をゆっくりと握り返す。
「私は、剣を持てる」
静かな声だった。恐れも気負いもない、ただ事実を伝えるための言葉。
「守られるだけの立場じゃない。自分の身は、自分で守れる」
以前にも交わした言葉だった。だが、今この状況で改めて告げられたそれは、より深い重みを伴っている。信頼という土台の上に築かれた確信を、シンクレアは静かに差し出していた。
「だから、お前は治すことに専念しろ。それが、今のお前にできる一番の役目だ」
その言葉に、オーレリアンはしばらく黙り込んでいた。悔しさと、シンクレアへの信頼が胸の中でせめぎ合っている。やがて、諦めたように小さく息を吐き、握られた手へ力を込め返した。
「絶対に、無事で帰ってこい」
搾り出すような一言だった。そこには、命令でも懇願でもない、切実な願いが込められている。
「約束する」
短く答えると、シンクレアは静かに立ち上がった。寝台に横たわるオーレリアンの様子を、もう一度だけ確かめるように見つめる。額の汗を拭い、乱れた前髪をそっと払いのけると、その手を離し、扉へ向かって歩き出した。
部屋を出る間際、振り返った視線の先で、オーレリアンは悔しさを噛み締めながらも、こちらを見つめ返している。互いに交わした無言の約束が、扉の閉まる音とともに静かに刻まれた。
廊下へ出たシンクレアを、ガイアスが待ち構えていた。
「準備は整った」
短い報告に、シンクレアは小さく頷く。松明の灯りに照らされた廊下には、既に出立の支度を終えた兵士たちの姿がある。緊張した面持ちの中にも、確かな士気が漲っていた。
「アスター家の周辺で、旅団の足取りを追った」
ガイアスが地図を広げながら続ける。
「森の奥、廃坑の跡地に怪しい動きがあるとの報告だ。おそらく、そこがエメリン嬢の連れ去られた先だろう」
地図上に記された印を見つめながら、シンクレアは静かに剣の柄へ手を添えた。冷たい鋼の感触が、指先から確かな覚悟を伝えてくる。
「行くぞ」
ガイアスの号令とともに、兵士たちが一斉に動き始めた。松明の炎が夜闇を照らし、隊列を組んだ一団は、静かに、しかし迅速に館を後にする。
見送る者のいない夜道を、シンクレアは前だけを見据えて進んだ。
脳裏には、寝台に横たわるオーレリアンの姿と、エメリンが縋るように告げた言葉が交互に浮かんでは消えていく。守るべき者が二人いる。その両方の想いを背負いながら、シンクレアは月明かりの下、森の奥へと足を進めていった。
冷たい夜風が頬を掠め、遠くから梟の鳴き声が響く。迫りくる戦いへの緊張を胸に抱きながら、隊列は静かに闇の中へと溶け込んでいった。




