静寂に忍び寄る影
秋の深まりとともに、アスター家の薬草園は収穫期の慌ただしさに包まれていた。
朝靄がまだ薄く漂う時刻、エメリンは籠を片手に、丹精込めて育ててきた薬草の一株一株を確かめて回っていた。露に濡れた葉先が朝日を受けて煌めき、踏み込むたびに土の湿った匂いが足元から立ち上ってくる。治療薬区画では、傷薬の材料となる白い花弁の草が満開を迎え、甘やかな香りを風に乗せていた。
「今年は、良い出来ですわね」
誰へともなく呟きながら、エメリンは一株の葉先を指先で撫でる。この薬草園で過ごす時間だけは、恋に一喜一憂する令嬢としての自分ではなく、薬師としての矜持を持つ自分でいられた。幼い頃から父の背中を追い、薬草の名前を一つ一つ覚え、調合の基礎を叩き込まれてきた歳月が、今のこの落ち着いた眼差しを形作っている。
ここ最近、辺境の空気には確かな緊張が漂い続けていた。
森での魔物の大量発生、オーレリアンを狙った毒矢、そして薬草園への侵入と毒草の盗難。一連の出来事が、単なる偶然ではないことは、もはや誰の目にも明らかだった。黒狼旅団という影が、辺境の日常へ着実に忍び寄っている。その事実を、エメリンも痛いほど理解していた。
だからこそ、薬草園の見回りにはこれまで以上に気を配るようになっていた。柵の点検を欠かさず、毒草区画の錠前を一日に何度も確かめ、見慣れない足跡がないかと地面へ目を凝らす。父からも、当分の間は一人での外出を控えるようにと言い含められていた。
それでも、屋敷の裏手にあるこの薬草園だけは、勝手知ったる我が家のような安心感がある。長年育ててきた植物たちの傍らにいる限り、何も恐れる必要はないはずだった。
籠いっぱいに摘み取った薬草を抱え、エメリンは屋敷へ向けて歩き出す。薬草園の奥、解毒薬区画を通り過ぎた辺りで、ふと視界の端に見慣れない影が過った。
足を止め、視線を巡らせる。
薬草園を囲む生垣の向こう、普段は誰も通らないはずの小道に、人影らしきものが一瞬だけ見えた気がした。目を凝らしても、そこにはただ風に揺れる木々の影があるだけである。
気のせいだろうか。
そう自分に言い聞かせながらも、エメリンの胸の奥では、拭いきれない違和感がじわりと広がっていく。最近の出来事続きで、神経が過敏になっているのかもしれない。籠を持ち直し、努めて平静を装いながら、屋敷への道を急いだ。
その日の午後、エメリンは屋敷の一室で薬の調合に没頭していた。
窓から差し込む陽光が、机上に並べられた乳鉢や蒸留器を淡く照らしている。摘み取ったばかりの薬草を細かく刻み、乳鉢へ移すと、慣れた手つきで擦り潰していく。すり込むたびに立ち上る青臭い香りが、部屋いっぱいに満ちていった。
集中している間だけは、余計な考えが頭から消え去る。手元の作業に意識を注ぎ込みながら、エメリンは午前中に感じた違和感を、次第に忘れかけていた。
日が傾き始めた頃、調合を終えたエメリンは、薬瓶を保管棚へ丁寧に並べていく。窓の外では、秋の陽が橙色に染まりながら地平線へ沈もうとしていた。
「そろそろ、閉め時ですわね」
呟きながら、薬草園の見回りを兼ねて外へ出る。夕暮れの風は冷たさを増し、頬に触れるたびに小さな震えを誘う。木々の葉擦れの音が、いつもより大きく響いているように感じられた。
薬草園の奥、解毒薬区画の柵を確かめようと歩みを進めたその時だった。
背後で、砂利を踏む微かな音がした。
振り返ろうとした瞬間、口元へ布のようなものが押し当てられる。甘く鼻を突く匂いが鼻腔の奥まで一気に染み渡り、視界が急速に霞んでいった。
「な──」
声を上げようとしたが、言葉にならなかった。抵抗しようと腕を振り上げるも、力が急速に抜けていく。膝から崩れ落ちる寸前、視界の端に映ったのは、黒い仮面をつけた人影だった。
意識が完全に途切れる直前、エメリンの脳裏に浮かんだのは、薬師としての誇りを踏みにじられる予感だった。
薬草園に静寂が戻る。夕闇に染まる庭には、落とされた籠だけが、主を失ったまま静かに転がっていた。
その日、アスター家からエメリンの姿が忽然と消えた。
異変に気づいたのは、夕餉の支度を整えていた侍女だった。庭へ様子を見に行かせたはずのエメリンが、いつまで経っても戻ってこない。心配になって庭へ足を運んだ侍女が見つけたのは、地面へ転がった籠と、踏み荒らされた土の上に残る、複数の足跡だけだった。
報せを受けたアスター子爵の顔からは、瞬く間に血の気が引いていった。
その夜のうちに、事は辺境軍へと伝えられる。詰所へ駆けつけたガイアスは、現場の状況を検分し、険しい表情のまま押し黙った。地面に残された足跡、周囲に漂う微かな薬品臭。これまでの事件と同じ、黒狼旅団の手口だった。
報せを聞いたオーレリアンの顔からも、いつもの朗らかさが消え失せる。幼馴染としての情と、辺境軍の一員としての使命感が、複雑に絡み合いながら胸を締め付けていた。
その傍らで、シンクレアは静かに拳を握り締めていた。
エメリンとの間に築かれた友情の記憶が、脳裏を巡っていく。薬草の知識を誇らしげに語る様子。看病に付き添ってくれた献身。信じてくださいと縋るように告げた、あの震える声。
「必ず、助け出す」
低く呟いた声には、これまでにない決意が込められていた。
夜の帳が完全に降りたエルフレイム邸には、これまでとは違う緊張が張り詰めている。庭先で見つかった籠だけが、無言のまま次に起こる出来事の予兆を、静かに物語っていた。




