忍び込んだ影
翌朝、シンクレアは再びアスター家の薬草園を訪れていた。
昨日とは違い、今回は正式な捜査としての訪問である。傍らにはガイアスも同行し、辺境軍の紋章を帯びた数名の兵士が後に続いていた。物々しい一団の到来に、薬草園で作業をしていた使用人たちが一様に手を止め、不安げな視線を向けてくる。
出迎えたのは、アスター子爵──エメリンの父だった。
白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけた初老の男は、事の次第を既に娘から聞かされていたのだろう、憔悴した表情を隠しきれずにいた。それでも背筋を伸ばし、毅然とした態度で一団を迎え入れる。
「毒草区画を、改めて検分させていただきたい」
シンクレアの申し出に、子爵は静かに頷いた。
「どうぞ。当家に疚しいことは、何一つございません」
その声には、疑いを向けられた者としての悔しさと、それでも潔白を示そうとする覚悟が滲んでいる。
一団は柵に囲まれた毒草区画へと足を踏み入れた。厳重に管理された一角には、禍々しい紫の葉を持つ植物や、棘に覆われた蔓草が、区画ごとに整然と植えられている。立て札には毒草の名称と、その扱いに関する注意書きが几帳面に記されていた。
ガイアスが辺りを見回しながら、鋭い目つきで地面を検分し始める。
「柵に、破られた形跡がある」
指し示された箇所を、シンクレアは覗き込んだ。柵の一部、目立たない裏手の位置に、僅かながら金具の歪みが見て取れる。何者かが外部から力を加えて侵入した痕跡だった。
「これは……」
駆け寄ってきたアスター子爵が、驚いた様子でその歪みを見つめる。
「気づきませんでした。日々の見回りでは、表側しか確認しておらず」
裏手は薬草園の奥まった一角にあり、普段の見回りの経路からは外れているのだという。管理する側の油断を突かれた形跡が、そこにははっきりと残っていた。
ガイアスは屈み込み、地面に残る足跡を注意深く観察する。
「一人分じゃないな。少なくとも、二人以上が出入りしてる」
足跡の大きさや歩幅を見比べながら、ガイアスは低く唸った。しかも、その足跡の一部には、見慣れない靴底の模様が刻まれている。この地方で流通している靴とは、明らかに違う造りだった。
「これは……」
シンクレアはその足跡をしばらく見つめていた。脳裏に浮かんだのは、森で転がり落ちてきた男の姿である。黒狼の仮面、紋章の入った服。あの一団と同じ靴を履いていたとすれば、答えは自ずと見えてくる。
「黒狼旅団の仕業だ」
呟いた声には、確信めいた響きがあった。
区画の奥へさらに進むと、明らかに何かが持ち去られた痕跡が見つかる。土が掘り返された跡があり、本来そこに植えられていたはずの株が、根こそぎ抜き取られていた。
アスター子爵は青ざめた表情で、その跡地を見つめている。
「これは……北方毒草です。混合毒に使われる、特に扱いの難しい株ですわ」
震える声で告げたのは、後を追って駆けつけてきたエメリンだった。籠を抱えたまま息を切らし、区画の惨状を目の当たりにして立ち尽くしている。
「盗まれたのですね……」
呆然とした呟きには、悲しみと怒りが入り混じっていた。父祖代々受け継いできた薬草園を、何者かに踏み荒らされ、悪用されたという事実が、その胸を強く締め付けているようだった。
シンクレアはエメリンの横顔を見つめた。そこに浮かぶ表情には、演技では作れない純粋な憤りがある。これまで抱いていた疑念が、静かに解けていくのを感じた。
「疑って、すまなかった」
短い謝罪だったが、そこには確かな誠意が込められている。
エメリンはしばらく無言のままシンクレアを見つめていたが、やがて小さく首を振った。
「状況を考えれば、無理もございませんわ」
気丈に答えるその声には、それでも隠しきれない震えが滲んでいる。膝から崩れ落ちそうになるのを堪えるように、エメリンは籠を強く抱きしめた。
「けれど……薬は、命を救うためにあるものですわ」
絞り出すような声だった。
「それを、こんな形で悪用されるなんて……許せません」
込み上げる感情を押し殺すように、エメリンは唇を強く噛み締める。薬師としての矜持を踏みにじられた怒りが、その瞳の奥で静かに燃え始めていた。
ガイアスは足跡の続く方角へ視線を向け、腕を組んだまま思案する。
「侵入経路からして、下見をした上での計画的な犯行だな。旅団の連中は、この辺りの地理にも詳しいらしい」
低い声には、これまで以上の警戒が滲んでいる。単なる散発的な襲撃ではなく、綿密に練られた策略の一環であることが、次第に明らかになりつつあった。
シンクレアは崩れた柵の跡を見つめながら、静かに息を吐いた。
森での襲撃、毒の出所、そして今回の侵入の痕跡。すべてが一本の線で繋がっていく。黒狼旅団は、ただ辺境を脅かすだけの盗賊団ではない。辺境伯家とアスター家、双方の信頼関係に楔を打ち込み、内側から瓦解させようとする、狡猾な意図が見え隠れしていた。
「これは、序章に過ぎない」
ガイアスが呟いた言葉が、静まり返った薬草園に重く響く。
秋の風が薬草の香りを運びながら吹き抜けていく。踏み荒らされた区画を見つめる一同の表情には、これから訪れるであろう本格的な脅威への、確かな緊張が滲んでいた。




