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疑いの影

オーレリアンの熱が峠を越えたのは、三日目の夜のことだった。


浅い眠りを繰り返しながらも、顔色には僅かながら赤みが戻り始めている。エメリンの調合した解毒薬が効いているのだろう、侍医もようやく安堵の息をついていた。それでも完全な回復にはまだ時間がかかるとの見立てに、シンクレアの心は完全には晴れなかった。


看病に一区切りがついたその朝、シンクレアは寝室を出て、庭先でキララと向き合っていた。


朝靄がまだ薄く残る庭は、しんと静まり返っている。冷えた空気が肌へ絡みつき、吐く息が白く滲んで消えていった。傍らに佇むキララは、いつもの穏やかな様子とは違い、耳を伏せたまま落ち着きなく地面の匂いを嗅ぎ続けている。


「探せるか」


問いかけに、キララは短く鳴いて応えた。


矢に塗られていた毒の成分は、エメリンの調べによって既に判明している。ならば、その出所を辿ることができれば、事件の真相へ近づけるはずだった。獣特有の鋭い嗅覚を持つキララならば、人の手では気づけない微かな残り香を頼りに、犯人の足跡を追えるかもしれない。


シンクレアは布に包んでいたものを取り出した。侍医が抜き取った鏃の欠片である。血の跡が黒く染み付いたその欠片を、キララの鼻先へそっと近づける。


キララは何度も鼻先をひくつかせ、慎重に匂いを確かめていた。やがて意を決したように顔を上げると、庭の外へ向かって歩き出す。


その足取りに迷いはなかった。


館の敷地を出て、街道沿いをしばらく進む。土の匂い、朝露に濡れた草の匂い、遠くから漂う炊事の煙。それらの匂いの中に、キララは目当ての一筋を確かに嗅ぎ分けているようだった。時折立ち止まっては地面へ鼻を押し付け、方角を確かめるように首を巡らせる。


シンクレアは黙ってその後を追った。


やがて辿り着いたのは、エルフレイム領に隣接するアスター家の領地だった。


見慣れた屋敷の裏手には、広大な薬草園が広がっている。整然と区切られた畑には、様々な色合いの薬草が丁寧に育てられ、朝の光を受けて瑞々しく輝いていた。その光景を目にした瞬間、シンクレアの胸に、言いようのない不穏な予感が過る。


キララの足は、迷うことなく薬草園の奥へと進んでいく。


やがて辿り着いたのは、周囲を頑丈な柵で囲まれた一角だった。柵の入口には重厚な錠前が掛けられ、立て札には毒草区画と記されている。当主や限られた薬師しか立ち入りを許されない、厳重に管理された場所だった。


キララはその柵の前で足を止めると、地面へ鼻を押し付けたまま、低く唸るような声を漏らした。


匂いの出所は、間違いなくここだった。


シンクレアは柵越しに、区画の奥を見つめる。禍々しい紫色の葉を持つ植物や、棘に覆われた蔓草が、薄暗い一角へ密やかに植えられている様子が見えた。


胸の奥で、これまで抱いていた疑念が、確かな形を帯び始めていく。


矢に塗られた毒の出所が、アスター家の管理する毒草区画だとすれば──そこに関われる人間は、限られている。

浮かんだ考えを、シンクレアはすぐに打ち消そうとした。だが、一度浮かんだ疑念は、そう簡単には消えてくれない。



その日の午後、シンクレアはアスター家を訪ねていた。


薬草園の見回りをしていたエメリンは、突然の来訪に驚いた様子を見せながらも、笑顔で出迎えてくれる。籠いっぱいに摘んだばかりの薬草を抱えたその姿には、いつもと変わらない朗らかさがあった。


「シンクレア様、どうかなさいましたの」


問いかける声には、屈託のない親しみが滲んでいる。だが、シンクレアはすぐに用件を切り出すことができなかった。


膝の上で握った拳に、僅かな力がこもる。目の前の少女が、あの毒事件に関わっているとは、どうしても信じたくない。ここ数日、オーレリアンの看病に付き添い続けてくれた誠実さを、シンクレアは間近で見てきたばかりだった。


それでも、確かめなければならない。


「毒草区画について、聞きたいことがある」


切り出した言葉に、エメリンの表情が僅かに強張った。


「毒草区画……ですか」


繰り返す声には、戸惑いが滲んでいる。


「オーレリアンを射た矢に塗られていた毒の成分が、アスター家の毒草と一致した。キララが匂いを辿って、区画まで案内した」


淡々と告げられた事実に、エメリンの顔から血の気が引いていく。抱えていた籠を、思わず落としそうになった手を、慌てて持ち直した。


「そんな……まさか」


震える声で呟くエメリンを、シンクレアはじっと見つめた。その表情に浮かぶのは、明らかな動揺だった。だが、それが罪の意識からくるものなのか、それとも身に覚えのない疑いを向けられた戸惑いからくるものなのか、シンクレアには判断がつかない。


「あの区画には、鍵がかかっているはずだ」


問いかけに、エメリンは小さく頷いた。


「ええ……当主である父と、限られた薬師しか、鍵を持っておりませんわ」


「お前は」


短い問いに、エメリンの唇が僅かに震える。


「わたくしも……鍵を、持っております」


その答えに、周囲の空気が一段と重く沈んだ。


薬師としての立場上、扱えることに何ら不自然さはない。だが、それは同時に、疑いを向けられる十分な理由にもなり得た。


「わたくしは、何もしておりませんわ」


震える声で、エメリンは訴えた。青い瞳には涙が滲み始めている。だが、その言葉を裏付ける証拠は、今のところ何一つ見当たらない。


「信じてくださいませ、シンクレア様」


縋るような声だった。だが、この日のシンクレアは、それだけで疑念を晴らすことができずにいた。


薬草園を吹き抜ける秋風が、二人の間に流れる沈黙をより一層重くしていく。積み重ねてきた信頼と、目の前に突きつけられた事実との狭間で、シンクレアの胸には割り切れない葛藤が渦巻いていた。


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