毒の刃と離れぬ番
森での戦闘から一夜が明けても、エルフレイム邸の空気は重く沈んだままだった。
矢が刺さった傷そのものは深いものではなかったが、鏃には何らかの毒が塗られていたらしく、屋敷へ運び込まれたオーレリアンは高熱にうなされ続けている。侍医が幾度となく様子を診に訪れては、首を傾げるばかりで、これといった治療法が見出せずにいた。
寝室の窓には遮光の布が掛けられ、薄暗い部屋の中には煎じ薬の苦い匂いが淀んでいる。寝台に横たわるオーレリアンの額には玉のような汗が浮かび、浅い呼吸を繰り返すたびに、胸元が小さく上下していた。頬はいつもの血色を失い、唇にもわずかな青みが差している。
その傍らに置かれた椅子には、シンクレアが腰掛けていた。
昨夜からほとんど眠っていない。目の下には薄っすらと隈が滲み、着替えることさえ後回しにしたまま、片時もこの部屋を離れずにいた。膝の上に置いた手を、時折きつく握り締める。
脳裏に焼き付いているのは、木の上から転がり落ちてきた男の姿だった。
黒狼の仮面。服に縫い付けられた紋章。あの意匠を、シンクレアは初めて目にしたわけではない。
王都にいた頃、婚約破棄からしばらく経ったある夜、王城の裏手で不審な影を見かけたことがあった。闇に紛れて素早く動くその者は、確かに黒い狼をかたどった仮面を身に着けていた。当時は野盗の一味か何かだろうと軽く受け流していたが、今にして思えば、あの時から既に黒狼旅団の影は王都にまで及んでいたのかもしれない。
北部を荒らし回る盗賊団が、まさか王都の中枢にまで手を伸ばしていたのだとすれば──その考えに至った瞬間、背筋を冷たいものが伝った。
単なる魔物の異常発生ではない。何者かが意図的に群れを森へ誘い込み、その混乱に乗じてオーレリアンを狙い撃った。あの巧妙さ、統率の取れた動き。噂に聞く黒狼旅団の仕業だとすれば、辺境全体が新たな脅威に晒され始めている証左でもあった。
考えを巡らせるシンクレアの耳に、扉を叩く控えめな音が届く。
「失礼いたしますわ」
入ってきたのはエメリンだった。両手には木箱を抱え、その中には幾つもの薬瓶や乾燥した薬草の束が几帳面に並べられている。昨夜、報せを受けてすぐに駆けつけてから、エメリンはほとんど休むことなくこの部屋へ通い続けていた。
いつもの令嬢らしい振る舞いは、今の彼女からは影を潜めている。木箱を寝台の脇へ置くと、迷いのない手つきで薬瓶を一つ取り出し、光にかざして中身を確かめた。
「矢に塗られていた毒、成分の見当はつきましたわ」
淡々とした声だった。恋に一喜一憂していた昨日までの姿とはまるで別人のような、静かな集中がその横顔に宿っている。
「北方の毒草を使った、複合毒ですの。単体なら対処は難しくございませんが、いくつかを掛け合わせているせいで、症状の進みが読みにくくなっておりますわ」
説明しながら、エメリンは布に浸した薬液を丁寧に絞り、オーレリアンの額へそっと当てた。汗で張り付いた前髪を指先でそっと払いのける仕草には、幼馴染としての情と、薬師としての冷静さが同居している。
「命に関わるほどではございません。ですが、しばらくは高熱が続くと思われますわ」
その言葉に、シンクレアは僅かに肩の力を抜いた。それでも、寝台に横たわる姿を見つめる眼差しからは、緊張が完全に消えることはない。
寝台の脇、床に敷かれた毛布の上には、キララが丸くなっていた。
普段であれば、誰かの気配に気づけば真っ先に駆け寄り、尾を振って甘えるはずのキララが、今はただじっと動かない。黒い瞳は絶えずオーレリアンの顔へ向けられ、時折浅い呼吸に合わせて耳がぴくりと動くだけだった。
「くーん……」
小さな鳴き声が、静まり返った部屋の中に細く響く。いつもの元気な様子からは想像もつかない、弱々しい響きだった。
シンクレアはそっと手を伸ばし、キララの頭を撫でた。柔らかな毛並みに触れても、キララは尾を振ることも、甘えるように擦り寄ることもしない。ただ、悲しげな瞳でオーレリアンを見つめ続けている。
「リアンは、大丈夫だ」
言い聞かせるように呟いた声は、キララへ向けたものであり、同時に自分自身へ向けた言葉でもあった。
薬液を絞り終えたエメリンが、寝台の傍らへ膝をつく。オーレリアンの手を取り、脈の速さを確かめながら、静かに口を開いた。
「シンクレア様も、少しはお休みくださいませ」
心配そうな声だった。
「わたくしが付いておりますもの。何かあれば、すぐにお呼びいたしますわ」
「いや」
短く答えると、シンクレアは椅子に座り直した。
「ここにいる」
その声には、揺るぎない意志が滲んでいる。エメリンはしばらくシンクレアの横顔を見つめていたが、やがて小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めている。部屋の中に満ちる煎じ薬の匂いと、時折漏れるオーレリアンの浅い呼吸音だけが、時の流れを刻んでいた。
キララは相変わらず、寝台の脇から一歩も動こうとしない。丸くなった白い身体を、シンクレアはもう一度そっと撫でる。
「大丈夫だ」
繰り返した言葉は、誰に向けたものか、もはや自分でも分からなくなっていた。それでも、その静かな確信だけを頼りに、シンクレアは長い夜を見守り続けるつもりでいた。
窓の外を渡る風が、やがて夕暮れの色を運んでくる。エルフレイム邸の一室では、それぞれの想いを抱えたまま、静かな時間だけが流れ続けていた。




