森を覆う影と飛来する刃
未明に届いた一報は、辺境軍の詰所を瞬く間に緊張の色へ染め上げていた。
北の森で魔物の大量発生が確認されたという知らせは、猟師からの通報を発端としている。普段であれば数体、多くても十数体程度の群れしか見られない土地で、夜通し響き続けた獣の遠吠えが尋常な数ではなかったのだという。報告を受けたガイアスは即座に部隊を招集し、夜明けとともに出立の準備を整えさせた。
冷え込む朝靄の中、辺境軍の一団は森の入口を目指して進軍する。
土を踏み締める軍靴の音が幾重にも重なり合い、鎧の擦れる金属音がその合間を縫うように響いていた。息を吐くたびに白い靄が立ち上り、寒気を帯びた朝の空気が肺の奥まで冷たく染み渡る。オーレリアンは先頭付近に位置取り、腰の剣に手を添えながら、油断なく周囲へ視線を配っていた。
隣を歩くシンクレアもまた、辺境軍の一員として同じ隊列に並んでいる。軽装の鎧に身を包み、腰には見慣れた剣を佩いていた。その足元には、白い毛並みを揺らすキララの姿がある。普段の穏やかな様子とは異なり、耳をぴんと立て、鼻先を絶えず動かしながら周囲の気配を探っていた。
森へ足を踏み入れた瞬間、空気そのものが変わったのをオーレリアンは肌で感じ取った。
木々の間から漏れる朝日は乏しく、湿った土と朽ちた落ち葉の匂いが濃く立ち込めている。普段であれば聞こえるはずの小鳥のさえずりが、今日に限って一切聞こえてこない。その異様な静けさが、これから起こる何かを予感させていた。
先頭を進んでいたガイアスが、不意に片手を上げて隊列を止める。
「止まれ」
短い号令が森の奥まで響き渡った。誰もが息を潜め、その場に留まる。木々の隙間から差し込む光が僅かに揺らぎ、遠くで何かが蠢く気配があった。
次の瞬間、鬱蒼とした木立の奥から、無数の黒い影が姿を現した。
漆黒の毛並みを持つ狼に似た魔物の群れだった。血のように赤く光る瞳が、木々の隙間からいくつも浮かび上がっている。牙を剥き出しにした咆哮が森中に反響し、地を揺るがすほどの数の群れが、一斉に隊列へ向かって押し寄せてきた。
「迎え撃て!」
ガイアスの怒声が響くと同時に、辺境軍の面々が一斉に剣を抜き放つ。金属の擦れる音が幾重にも重なり合い、緊張と興奮の入り混じった空気が森全体を包み込んだ。
オーレリアンは剣を構え、真っ先に飛びかかってきた一体の魔物へ斬りかかる。刃が黒い毛皮を裂く感触と共に、生温かい血飛沫が頬へ跳ねた。獣特有の獣臭さと血の匂いが鼻腔を刺激し、周囲では剣戟の音と魔物の断末魔が絶え間なく響き渡っている。
シンクレアもまた、流れるような太刀筋で次々と魔物を斬り伏せていた。冷静に間合いを見極め、無駄のない動きで急所を狙う。その姿には、恐怖よりも研ぎ澄まされた集中が滲んでいる。
キララもまた、この戦いの中で確かな役割を果たしていた。
白い体躯が跳躍し、迫りくる魔物の喉元へ鋭い爪を振るう。水色の紋様が淡く光を帯びると同時に、周囲を覆っていた不気味な瘴気が僅かに薄れていく。まるで場を清めるかのような不思議な力が、キララの動きに合わせて広がっていた。時折、追い詰められた兵士の元へ素早く駆けつけ、魔物の注意を逸らすように立ちはだかる姿もある。聖獣としての力が、確かにこの戦場を支えていた。
戦況は徐々にこちらへ傾き始めていた。ガイアスの的確な指示のもと、部隊は連携を保ちながら着実に数を減らしていく。
だが、その時だった。
木々の高い枝の合間に、微かな人の気配が動いた。
ガイアスの目が鋭くその方向を捉える。
「上だ──」
叫ぼうとした声は、間に合わなかった。
風を切る音が一瞬だけ響き、次の瞬間、オーレリアンの肩へ鋭い痛みが走る。矢が深々と突き刺さり、鮮血が飛び散った。
「リアン!」
シンクレアの叫びが響き渡る。だが、彼女の反応はそれだけでは終わらなかった。
考えるよりも先に、手にしていた剣を高く振りかぶり、矢が飛んできた方角──木の上の人影めがけて力の限り投げつける。回転しながら宙を裂いた刃は、正確に狙いを捉え、木の上に潜んでいた人物の腹部へ深々と突き刺さった。
くぐもった呻き声とともに、その人影が枝から転がり落ちる。
地面へ叩きつけられたのは、黒狼の仮面を着けた男だった。着用していた服には、黒狼の紋章が縫い付けられている。刺さった剣を、男は苦悶の表情を浮かべながらも自らの手で引き抜いた。血の滴る刃を放り捨てると、痛みに顔を歪めながらも身を翻し、森の奥へと走り去っていく。
シンクレアはその背中を追おうと足を踏み出した。だが、行く手を阻むように新たな魔物が飛びかかってくる。舌打ちを堪えながら、目の前の脅威へ構え直すしかなかった。
「俺は大丈夫だから、魔物に集中しろ!」
肩を押さえながら、オーレリアンが叫ぶ。だが、その声には隠しきれない苦しさが滲んでいた。
顔色は明らかに悪い。頬から血の気が引き、額には脂汗が滲んでいる。呼吸も浅く、荒く乱れていた。矢が刺さった痛みだけが原因とは思えない様子に、シンクレアの胸に不穏な予感が過る。
それでも今は、目の前の敵を退けることが先決だった。地面に転がっていた剣を素早く拾い上げると、シンクレアは襲いかかる魔物へ向き直る。刃を振るうたびに、肩を負傷したオーレリアンへ気を配りながらも、決して集中を切らすことはなかった。
ガイアスの怒声が、絶え間なく戦場へ響き渡っている。
部隊の陣形を巧みに操りながら、群れの動きを読み、弱った箇所から的確に叩き潰していく。その指揮ぶりには、王国軍第一遊撃隊隊長としての実力が遺憾なく発揮されていた。剣を振るう手も緩めることなく、次々と魔物を斬り伏せていく姿は、まさに歴戦の指揮官そのものである。
戦況は、着実にこちら側へ傾いていった。
数を減らし続けた魔物たちは、やがて統率を失い始める。仲間が次々と倒れていく光景に、獣としての本能が勝ち目のなさを悟ったのだろう。残っていた僅かな数の魔物は、怯えたように後退し、やがて森の奥へと散り散りに逃げ去っていった。
静寂が、ゆっくりと森へ戻ってくる。
荒い息遣いと、剣を鞘へ収める音だけが響く中、辺境軍の兵士たちの間に安堵の色が広がり始めた。誰もが傷を負いながらも、辛くも勝利を掴み取った実感を噛み締めている。
その勝利を確信した、まさにその瞬間だった。
オーレリアンの足元が、不意にぐらりと崩れる。
膝から力が抜け、支えを失った身体が地面へ向かって傾いていく。矢の刺さった肩からは、止まる気配のない出血が続いていた。
「リアン!」
シンクレアの叫びが、森中に鋭く反響する。
倒れ込む身体へ駆け寄る間もなく、オーレリアンの意識はそこで完全に途切れていた。木々の合間を縫って響いたその声だけが、しばらくの間、静まり返った森の中でこだまし続けていた。




