薬草の香りと差し出された手
秋も深まりつつある昼下がり、辺境の城下町は市場の喧騒に包まれていた。
石畳の上には露店が所狭しと並び、色とりどりの野菜や織物、金物細工が陽光を受けて艶やかに輝いている。人々の話し声と呼び込みの声が幾重にも重なり合い、時折その隙間を縫うように、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
籠を片手に人混みを縫って歩いていたエメリンは、ふと前方に見覚えのある人影を見つけて足を止めた。
軽装ながらも腰に剣を佩いたシンクレアが、市場の一角を静かに見回っている。巡回中なのだろう、その視線は油断なく周囲へ配られ、背筋も乱れることなく伸びていた。傍らには白い毛並みの獣がぴたりと寄り添い、足取りを合わせるようにして歩いている。
長い尾を緩やかに揺らしながら歩くその獣は、道行く人々の視線をいくつも集めていた。水色の紋様が陽光を受けて淡く輝き、時折こちらを窺うように黒い瞳を細める。
エメリンは籠を持ち直すと、小走りに駆け寄った。
「シンクレア様、ごきげんよう」
声を掛けると、シンクレアがゆっくりと振り返る。その足元にいた白い獣も、同時にこちらへ鼻先を向けた。しばらく品定めするように見つめたあと、ふわりと尾を揺らしながら歩み寄ってくる。
小さな鼻先が、エメリンのスカートの裾へそっと擦り寄せられた。
「まあ……」
思わず声が漏れる。柔らかな毛並みが足へ触れる感触に、エメリンは目を細めた。警戒心の欠片も見せない、人懐っこい仕草だった。
「この子は」
「キララだ」
短く答えたシンクレアの声には、僅かな柔らかさが滲んでいる。
「キララ……」
繰り返しながら、エメリンはしゃがみ込み、そっと白い頭へ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、キララは気持ちよさそうに目を細め、小さく喉を鳴らす。その反応に、エメリンの頬が自然と緩んだ。
「とても可愛らしいですわ」
耳の付け根を優しく撫でながら、しばらくその感触を楽しむ。柔らかな毛並みは想像していたよりも滑らかで、撫でるたびに指の間から零れ落ちていくような心地よさがあった。
ひとしきり撫で終えて立ち上がったところで、シンクレアの視線が、エメリンの背後や周囲へすっと巡らされる。連れの姿も、供の侍女も、どこにも見当たらない。護衛らしき人影が一つもないことに気づいた様子だった。
「護衛もつけずに、一人で何をしているんだ」
問いかけには、咎めというより素朴な疑問の色が滲んでいる。子爵家の令嬢が、一人で市中を出歩くことは珍しい。剣を扱う者として、そうした無防備さへ自然と目が向くのだろう。
問われたエメリンは、少し照れたように扇を開き、口元を隠した。
「たまには一人で、ゆっくり買い物をしたい時だってありますわ」
侍女を連れて出歩くことにも慣れているが、時にはそうした気遣いから解放され、自分のためだけに時間を使いたいと思うこともある。そう答えると、シンクレアは小さく頷いた。追及するつもりはないと言うように、それ以上は何も問わない。
そのまま二人は、どちらからともなく歩調を合わせて歩き始めた。
市場を抜ける道すがら、話題は他愛のないものへと移っていく。今年の秋は例年より実りが良いという噂、辺境軍の詰所で振る舞われる汁物の味、王都と辺境とでは同じ野菜でも品種が違うという発見。会話に大きな起伏はなかったが、その静かなやり取りには、互いを探るような緊張はなかった。
キララは二人の間を行き来しながら、時折立ち止まって露店の匂いを嗅いだり、通りすがりの子どもに撫でられたりしている。その姿を横目に眺めながら、エメリンはふと、話題を自分の家のことへ向けた。
「アスター家は、代々薬師の家系ですのよ」
語り出す口調には、これまでの他愛ない話とは違う、確かな誇りが滲んでいた。
「屋敷の裏手に薬草園がございまして、王国中から集めた薬草や、代々研究してきた品種まで育てておりますの。辺境軍で使われている薬も、その多くはアスター家が調合したものですわ」
シンクレアは横目でエメリンを見つめ、静かに耳を傾けている。その視線には、興味と敬意が入り混じっていた。
「知らなかった。道理で、詳しいわけだ」
先日の茶会での知識自慢を思い返したのだろう、シンクレアの声には僅かな納得が滲んでいる。
「薬草のことだけは、誰にも負けませんもの」
胸を張るように答えながら、エメリンは足を止めた。並んで歩いていたシンクレアも、それに合わせて歩みを緩める。
「シンクレア様」
声の調子が、僅かに改まる。
「もし何か困ったことがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいませ。怪我をされた時はもちろん、心が落ち着かない時にお使いいただけるハーブティーや、疲れた身体を癒す漢方薬なども、いくらでもご用意できますわ」
その言葉には、これまでの張り合う気持ちとは異なる響きがあった。恋敵として意識していたはずの相手へ向けて、思わず本心が零れ落ちたような、そんな純粋さが滲んでいる。
シンクレアはしばらくエメリンの顔を見つめていた。そこに込められた気遣いの重みを、静かに受け止めているような沈黙だった。
「感謝する」
短い返答だったが、そこに宿る響きには、確かな真実味があった。
キララがふと二人の間へ割り込むように歩み寄り、エメリンの足へ再び鼻先を擦り寄せる。その仕草に、エメリンは小さく笑みを零した。
秋の陽射しが石畳を柔らかく照らし、市場の喧騒が遠くから穏やかに響いている。恋敵として構えていたはずの心の奥に、いつの間にか別の感情が静かに芽生え始めていた。




