眠れぬ夜と幼稚な作戦
アスター家の屋敷、その二階にある私室で、エメリンは寝台の上でうつ伏せになったまま身動き一つ取れずにいた。
窓の外では、秋の虫たちが変わらぬ調べを奏でている。燭台の灯りは絞られ、部屋の中は薄闇に沈んでいた。羽根布団の柔らかな感触も、いつもなら安眠を誘うはずのその質感も、今夜だけは何の慰めにもならない。
顔を埋めた枕からは、微かな呻き声が漏れ続けていた。
昼間の光景が、まぶたの裏で何度も繰り返される。差し出したタルトを美味しそうに頬張るオーレリアンの横顔。その隣で、静かにフォークを動かしていた銀髪の女性の佇まい。守らなくてもいい関係だと、迷いなく告げたオーレリアンの声。あの一言が、今も耳の奥にこびりついて離れなかった。
枕へ埋めた顔をゆっくりと持ち上げると、エメリンは勢いよく身体を起こす。整えられていた長い髪が乱れ、頬には枕の跡がくっきりと残っていた。それでも構わず、両手で枕を掴み上げると、力の限り寝台へ叩きつけ始める。
「なんでですのおおおお!!」
叫び声とともに振り下ろされる拳の勢いに、羽根の詰まった枕が悲鳴のように鈍い音を立てた。何度も、何度も。積み重ねてきた想いの分だけ、その動作は止まる気配を見せない。
「なんでポッと出のお方にリアン様を取られなくてはなりませんの!!」
息を切らしながら、エメリンは枕を握りしめた。指先が白くなるほどの力が込められている。
「わたくしが先でしたのに……!」
声が震え、次第にすすり泣くような響きへ変わっていく。
「わたくしが先にお会いして、先に好きになりましたのに……!」
幼い頃、薬草園の片隅で膝を擦りむいて泣いていた自分を、オーレリアンが不器用に慰めてくれたことがあった。何気ない優しさだったのだろう。本人はきっと、今ではもう覚えてすらいない。それでも、その記憶だけが胸の奥にずっと居座り続けていた。誰よりも早く、誰よりも長く、彼を想い続けてきたという自負がある。
その自負が、今日という一日で音を立てて崩れていく。
枕を抱きしめたまま、エメリンは寝台の上へ崩れ落ちた。悔しさと悲しさが胸の中で入り混じり、どちらが強いのか自分でも判別がつかない。しばらくの間、そのまま丸くなって天井を見上げていた。
けれど、いつまでも沈んでいるつもりはなかった。
がばりと勢いよく起き上がると、エメリンは寝台の上へ正座する。乱れた髪をかき上げ、涙の跡が残る目元をぐいと拭った。青い瞳には、悲嘆とは違う、燃えるような闘志が宿り始めている。
「……こうなったら」
低く呟いた声には、これまでにない決意が滲んでいた。
「リアン様から、手を引いていただくしかありませんわ」
翌朝、エメリンはエルフレイム邸へ再び足を運んだ。手には昨日とは違う籠を提げ、口元には自信ありげな笑みを浮かべている。今日という一日を、綿密に計画してきたつもりだった。
作戦の第一段階は、シンクレアが「よそ者」であることを、それとなく思い知らせることだった。
回廊で行き合ったシンクレアを呼び止めると、エメリンは扇を優雅に開きながら、わざとらしいほど流暢に語り始める。
「エルフレイム家では、秋の収穫祭に辺境軍の紋章旗を各家へ配る習わしがございますのよ。ご存知でした? 旗の色は代々、長兄様の代替わりごとに変わりますの」
聞かれてもいないことを、次から次へと披露していく。館の間取りの由来、歴代当主の逸話、この地方特有の茶葉の淹れ方まで、幼い頃からこの土地に親しんできた者だけが知る細かな知識を並べ立てた。言葉の端々には、暗に「あなたはまだ何も知らない」という棘が滲んでいる。
「シンクレア様は、まだこちらへ来られたばかりですものね。ご存知なくて当然ですわ」
締めくくりの一言には、隠しきれない優越感が込められていた。
だが、話を聞き終えたシンクレアは、興味深そうに小さく頷いただけだった。
「詳しいな。今度、旗の色の由来を教えてくれ」
驚くほど素直な反応だった。動揺も、劣等感も、そこには欠片も見当たらない。むしろ、新しい土地の知識を得られたことを純粋に喜んでいるような表情さえ浮かべている。
拍子抜けした表情のまま、エメリンは立ち尽くした。
作戦の第二段階は、昼食の席でオーレリアンとの思い出話を持ち出し、二人の絆の深さを強調することだった。
「リアン様、覚えてらっしゃいます? 昔、薬草園でわたくしが転んだ時──」
「ああ、あったな。膝から血が出て、大泣きしてた」
懐かしそうに笑うオーレリアンの返答に、エメリンの頬が僅かに上気する。だが、その隣に座るシンクレアは表情を変えることもなく、静かに食事を続けていた。動揺した様子も、嫉妬の色も、微塵も見当たらない。むしろ、微笑ましい昔話として素直に聞き入っている風にすら見える。
作戦は、まるで手応えがなかった。
昼食のあと、エメリンは意を決して次の一手へ移った。庭の椅子の脚に小さな石を挟み込む。座った瞬間に不安定になり、驚いた顔でも見せてくれれば、それだけで溜飲が下がるはずだった。
だが、シンクレアは椅子に腰を下ろした瞬間、僅かにぐらついた感触へ即座に重心を移し、涼しい顔のまま体勢を立て直してしまう。剣を握り続けてきた者特有の反射だった。石の存在にすら気づいていない様子で、そのまま何事もなかったように本のページをめくり始める。
物陰からその一部始終を見守っていたエメリンは、両手で顔を覆った。
策の三つ目、四つ目も、同じように空振りに終わった。廊下で軽くぶつかるふりをして荷物を落とさせようとすれば、シンクレアは既のところで受け止めてしまう。庭の花瓶をわざと目立つ場所へ動かし、驚かせようと企てれば、興味深そうに眺められただけで通り過ぎられてしまう。どれもこれも、幼稚な悪戯としか呼べないものばかりだったが、それにしても手応えのなさが尋常ではなかった。
夕暮れ時、庭の片隅にあるベンチへ座り込んだエメリンは、両膝を抱えたまま項垂れていた。
用意してきた作戦は、ことごとく不発に終わっている。嫌がらせをしているという自覚すら、相手には届いていないらしい。むしろ、自分の行動の一つ一つが、シンクレアにとってはただの日常の延長としか映っていないようだった。
「て、手強いですわね……」
呆然とした呟きが、夕暮れの庭へ静かに溶けていく。
剣を握って生きてきた者の胆力と観察力は、令嬢らしい駆け引きなど軽く受け流してしまうほどの強さを持っている。恋敵として意識していた相手が、実はまるで別の次元で戦っている人間だったのだと、ようやく思い知らされた気分だった。
夕日に染まる空を見上げながら、エメリンは深い溜め息をつく。今日一日の徒労が、じわじわと肩へのしかかってきた。それでも、諦めるという選択肢だけは、まだ頭に浮かんでこない。
「次は……もっと考えませんと」
小さな声で呟くと、エメリンは膝を抱えたまま、次の作戦を練り始めた。その表情には、悔しさの中にも、まだ消えていない意地が滲んでいる。
庭木の影が長く伸び、涼やかな夜風が吹き始める頃、エメリンはようやく重い腰を上げた。今日という日の敗北を噛み締めながらも、その足取りにはまだ僅かな力強さが残っていた。




