覚悟とまだ結ばれない夜
公爵家への報告を終えたその日、館は昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
夕餉の片付けを終えた使用人たちも早々に自室へ下がり、廊下を照らす燭台の灯りだけが、石造りの壁へ長い影を落としている。
窓の外では虫の音が絶え間なく響き、時折吹き込む夜風が薄いカーテンを揺らしていた。
割り当てられた夫婦の寝室は、館の東棟の一角にある。
婚礼の慌ただしさに紛れて準備されたその部屋は、シンクレアの瞳の色に合わせたのだろう、寝具も壁掛けも淡い水色で統一されていた。
真新しい寝台の上掛けには、皺一つない張り詰めた清潔さがある。
湯浴みを終えたシンクレアは、寝台の端に腰掛けたまま、膝の上で重ねた両手をじっと見つめていた。
夜着の薄い生地越しに、寝台の冷たさが太腿へ伝わってくる。剣を握るときの硬い感触とは違う、頼りない柔らかさが指先へ絡みついていた。
胸の奥で、鼓動が普段よりも速く刻まれている。
戦場に立つ時とは異なる緊張だった。
刃を交える恐怖なら、これまでの鍛錬で幾度となく乗り越えてきた。
今この胸を締め付けているものには、覚悟を決めても消えない震えがある。
自分は今日、正式にオーレリアン・エルフレイムの妻となった。
その事実の重みを、湯浴みの間じゅう繰り返し噛み締めていた。婚姻を交わした以上、妻としての務めを果たさなければならない。
それがどのようなものかは、幼い頃から侍女や母から遠回しに教えられてきた。
知識としては理解している……が、実際にその場面を前にすると、身体の芯から冷たい何かがせり上がってくるようだった。
扉の向こうから、微かな足音が近づいてくる。
シンクレアは背筋を伸ばし、膝の上の手をきつく握り直した。
扉が静かに開き、湯浴みを終えたオーレリアンが姿を見せる。
黒髪はまだ僅かに湿り気を残し、寝間着の襟元から覗く首筋には、隠しきれない硬さが滲んでいた。
彼もまた、この夜に何かを覚悟してきたのだと、その表情だけで分かる。
「起きてたのか」
短い問いかけに、シンクレアは小さく頷いた。声を出せば、震えが伝わってしまいそうだった。
オーレリアンは寝台の傍らまで歩み寄ると、少し距離を置いて腰を下ろす。
木の軋む音が、静まり返った部屋へやけに大きく響いた。二人の間には、拳一つ分ほどの隙間がある。
その距離が、今夜の互いの緊張をそのまま表しているようだった。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
窓の外で虫の音が続き、蝋燭の炎が微かに揺れる。
灯りに照らされたシンクレアの横顔を、オーレリアンはじっと見つめていた。
その視線に気づき、シンクレアはゆっくりと顔を上げる。
覚悟は決めてきたはずだった。妻としての務めを果たすことに、迷いなどないと自分へ言い聞かせてきた。
それなのに、いざ言葉にしようとすると、喉の奥が強張って上手く声が出ない。
それでも、逃げるつもりはなかった。
シンクレアは膝の上の手を解き、寝台へついた指先で身体を支えながら、真っ直ぐオーレリアンへ向き直る。
「私は今日、お前の妻になった」
声はまだ僅かに硬かったが、視線だけは逸らさなかった。
「妻としての務めは、果たすつもりだ。覚悟はできている」
飾らない言葉だった。恥じらいを隠すためではなく、ただ自分に課した義務を伝えるための一言。
剣を握る時と同じ眼差しで、シンクレアはオーレリアンを見つめていた。
その言葉を受け止めたオーレリアンの表情が、静かに翳る。
嬉しさよりも先に、胸の奥が微かに痛んだ。求めていたのはこんな言葉ではない。
義務感からくる覚悟でも、責任感による差し出しでもない。
彼女自身の想いが欲しかった。
しばらくの沈黙のあと、オーレリアンはゆっくりと首を横へ振った。
「いい」
短い返答に、シンクレアの瞳が僅かに揺れる。
「務めだからって、身体を差し出さなくていい」
寝台に置かれたシンクレアの手へ、オーレリアンはそっと自分の手を重ねた。
硬く強張っていた指先が、その温もりに触れた途端、微かに震える。剣を握り続けてきた硬さの残る手を、オーレリアンは壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「クレアが、義務でここに来るのは嫌だ」
金色の瞳には、迷いも欲望の色もなかった。ただ、真っ直ぐに彼女だけを見つめている。
「俺は、クレアに好きになってほしい。義務でも、責任でもなく、俺自身を好きになってくれた時に、初めて夫婦になりたい」
その一言は、シンクレアの胸の奥に、これまで感じたことのない波紋を広げた。
覚悟を決めてきたはずの心が、静かに揺らいでいく。
妻としての義務を果たすことばかりを考え、自分の気持ちがどこにあるのかを、いつの間にか置き去りにしていたのかもしれない。
「だが……」
言葉を続けようとしたシンクレアを、オーレリアンは静かに遮った。
「待つのは、平気だ」
冗談めかした響きは、どこにもない。むしろ、これまでの誰よりも真剣な声だった。
「十二年も待った男だぞ。今更、少しくらい待つのは慣れてる」
その言葉に、十二年前の記憶を失っていた歳月と、それでも消えなかった想いの重みが、静かに滲んでいる。シンクレアは何も答えられなかった。
ただ、胸の奥へ込み上げてくる熱が、指先を通してオーレリアンへ伝わってしまいそうで、握られた手を握り返す。
蝋燭の炎が揺れ、二人の影を壁へ長く伸ばした。
窓の外では、変わらず虫の音が響き続けている。
その夜、二人はまだ夫婦として結ばれることはなかった。
それでも、拳一つ分あった距離は、いつの間にか消えていた。
並んで座ったまま、どちらからともなく肩が触れ合う。
言葉はもう必要なかった。
やがてシンクレアは、静かにオーレリアンの肩へ頭を預けた。
その重みを受け止めたオーレリアンは、小さく息を吐き、そっと目を閉じる。
覚悟という名の重荷を下ろした二人の間には、義務でも責任でもない、もっと柔らかな何かが、静かに芽吹き始めていた。




