母の望みと、譲れない優しさ
館の一角は普段とは違う喧騒に包まれていた。
広間の長机には反物や仕立て上がりの衣装が山のように積まれ、淡い水色や深紅、金糸の刺繍が施された生地が朝日を受けて艶やかに輝いている。その脇では焼き菓子の箱がいくつも開けられ、蜂蜜と胡桃の甘い匂いが漂っていた。エレノアは長椅子に腰掛けることさえ忘れ、次から次へと届けられる荷を検分しては目を輝かせている。
「見て、シンクレアさん。これなんてどうかしら。あなたの瞳の色に合わせて仕立てさせたのよ」
薄い絹地を広げながら、エレノアは弾んだ声を上げた。青灰色の瞳に映える淡青の生地は、光の加減で銀にも見える不思議な色合いをしている。仕立て屋を急かして数日で用意させたのだろう、縫い目の丁寧さからも並々ならぬ気合いが伝わってきた。
「娘が欲しかったのよ、ずっと。息子ばかりで、こういうことをする機会がなかったから」
その声には、単なる社交辞令ではない本物の喜びが滲んでいる。エレノアにとってこの数日は、長年温めてきた願いがようやく叶う時間なのだろう。次々と広げられていく反物の山を眺めながら、彼女の頬はいつになく上気していた。
「エレノア、少しは加減を」
窘めたのはアルベルトだった。恰幅の良い身体を持て余すように長椅子から身を起こし、妻の傍らへ歩み寄る。だが、その口調に本気の咎めはない。むしろ困り顔の裏側で、妻の楽しそうな様子を微笑ましく見守っているのが分かった。
「シンクレア嬢が困っているだろう」
「困ってなんかいないわ。ねえ、シンクレアさん」
水を向けられ、シンクレアは慌てて首を横に振った。実際、困っているというよりは、この賑やかな空気そのものに戸惑っていたというのが正しい。ローゼンタール公爵家では、これほど無邪気に何かを楽しむ大人の姿を見た記憶がなかった。
長椅子の端に座っていた三兄弟は、いつものやり取りだと言わんばかりに顔を見合わせ、揃って苦笑を浮かべている。レオンは書類を手にしたまま視線だけをこちらへ寄越し、カイルは頬杖をついて成り行きを眺め、ガイアスに至っては早々に興味を失ったのか、腕を組んだまま目を閉じかけていた。それでも誰一人として席を立とうとしないところに、この家族の在り方が表れている。
シンクレアは差し出された反物へそっと手を伸ばした。指先に触れる絹の滑らかさと、包み込むような温かい色合い。誰かが自分のためだけにこれほどの手間をかけてくれたという事実が、じんわりと胸の奥へ染み込んでいく。頬が緩みかけたその瞬間だった。
「結婚式、どうしましょう?」
エレノアが何気ない調子で放った一言に、シンクレアの表情がわずかに強張った。
広間の空気が、ほんの一瞬だけ止まったように感じられる。窓の外では小鳥のさえずりが変わらず続いているのに、その音さえ遠くなったような錯覚があった。式という言葉が持つ重みが、胸の奥へ静かに沈んでいく。
大勢の視線を浴びる場所は、昔から得意ではなかった。着飾ることも、着飾った自分を人前に晒すことも。剣を握っている時だけは何も考えずにいられたが、華やかな衣装をまとい、多くの人々の前へ立つことを想像するだけで、指先から体温が引いていくような感覚に襲われる。
けれど、それを口にすることはできなかった。せっかく喜んでくれている義母の前で、自分の我儘を告げることが正しいとは思えない。ローゼンタール家の令嬢として育てられた矜持が、弱音を吐くことを許さなかった。だから何も言えないまま、シンクレアはただ視線を落とし、膝の上で握った手を見つめ続けた。
反物を手にしたエレノアの表情から、次第に高揚が消えていく。無邪気に浮かれていた自分が、何か大切なものを見落としていたのかもしれない。そう気づいた瞬間の戸惑いが、柔らかな眉間の皺となって表れていた。
その沈黙を破ったのは、オーレリアンだった。
窓辺に寄りかかっていた身体をゆっくりと起こし、シンクレアの隣まで歩み寄る。俯いた横顔をしばらく見つめてから、静かに口を開いた。
「身内だけで軽くやろう」
短い一言だった。だが、その声には迷いがなかった。
「大勢呼んで、着飾って、頭を下げられるだけの式なんて、俺もクレアも望んでない。式なんて誰のためにやるものでもないだろ。俺たちのためにやるものだ」
貴族の結婚式としては、あまりにも異例な提案だった。公爵家の令嬢と辺境伯家の子息の婚姻ともなれば、本来なら王都の大聖堂を借り、名だたる貴族を招いて盛大に執り行われるのが慣わしである。それを知らないオーレリアンではない。それでも彼の口調に迷いは一切なかった。
シンクレアは俯けていた顔をゆっくりと上げた。金色の瞳がまっすぐこちらを見つめている。そこには、社交辞令でも同情でもない、ただ彼女の気持ちだけを慮る誠実さがあった。乗り気でない相手に、その意志を曲げさせてまで慣習をなぞらせるつもりなど、彼には初めからないのだ。
胸の奥で強張っていた何かが、ゆっくりとほどけていく。誰かに言葉にする必要もなく、自分の気持ちを分かってもらえた。その安堵は、これまで感じたことのないほど深く胸へ染み渡った。
しばしの沈黙のあと、最初に頷いたのはアルベルトだった。
「それがいい。式など、当人たちが望まぬなら無理にやるものではない」
豪快な笑い声とともに肩を竦めてみせる。その隣でエレノアも、ようやく我に返ったように小さく息をついた。反物を丁寧に畳み直しながら、少し困ったような、それでいて優しい笑みを浮かべる。
「そうね……私が浮かれすぎていたわ。ごめんなさいね、シンクレアさん」
「いえ」
短く答えたシンクレアの声は、いつもより幾分か柔らかかった。
レオンは書類へ視線を戻しながら、静かに口を挟んだ。
「他の公爵家への知らせは、手紙で済ませれば十分でしょう。婚姻の事実さえ伝われば、儀礼上の問題にはなりません」
「それでいい」
すかさずガイアスが同意する。式次第だの招待客だのを考えることに、端から興味などなかったのだろう。腕を組んだまま欠伸を噛み殺す仕草に、カイルが呆れたように肩を竦めた。
「ガイアスは結局、面倒事から逃げたいだけだろ」
「悪いか」
軽口の応酬に、広間へ小さな笑いが広がっていく。張り詰めていた空気は、いつの間にか元の温かなものへ戻っていた。
シンクレアは膝の上で握っていた手を、ゆっくりと開いた。指先にはまだ、先ほど触れた絹の感触が残っている。誰も自分に何かを強いようとはしない。この家では、我慢して笑う必要も、望まぬ役割を演じる必要もないのだと、ようやく実感が追いついてくる。
隣に立つオーレリアンへ視線を向けると、彼はいつもと変わらぬ様子で笑いかけてきた。特別なことは何もしていないと言わんばかりの、あっけらかんとした表情だった。それでも、その笑顔の裏に隠された気遣いの深さを、シンクレアは誰よりも理解していた。
窓から差し込む朝の光が、広間に積まれた反物を柔らかく照らしている。式の形は変わっても、それぞれの想いだけは、確かにこの場所へ根を下ろし始めていた。




