剣が語る覚悟
辺境軍の駐屯地は、朝の鍛錬を終えたばかりの熱気に包まれていた。
土埃の匂いが練兵場一面に立ち込め、乾いた地面には無数の足跡が刻まれている。訓練用の木剣を打ち合わせる音がまばらに響き、汗を拭う兵士たちの合間を縫うように、オーレリアンとシンクレアは奥にある詰所へと向かっていた。
石造りの詰所は駐屯地の中でも一際大きく、辺境軍第一遊撃隊の指揮官が普段執務を行う場所である。扉の前に立つ衛兵はオーレリアンの姿を認めると、慣れた様子で敬礼を返し、すぐに道を空けた。
扉を開けた先には、書類の山に囲まれたガイアスの姿がある。
窓から差し込む朝の光が、机に広げられた地図や報告書を白く照らしていた。羽根ペンを片手に何かを書き記していたガイアスは、二人の気配に顔を上げる。黒髪から覗く金色の瞳が、来訪者の顔ぶれを確かめた瞬間、僅かに眉を寄せた。
「揃って来るとは、何の用だ」
用件を察しているような口ぶりだった。ガイアスは羽根ペンを置き、椅子の背もたれへ体重を預ける。その所作には、隊を束ねる者としての威圧感が滲んでいた。家での気安さとは異なる、軍人としての顔である。
オーレリアンは臆する様子もなく、まっすぐガイアスの前まで歩み寄った。
「クレアを、辺境軍へ入隊させてほしい」
前置きのない一言だった。ガイアスの表情が、僅かに硬くなる。
執務机の向こうから注がれる視線は、値踏みするようにシンクレアへ移った。銀色の髪、細身の身体、貴族らしい所作。その外見だけを見れば、とても前線に立つ人間には見えない。
「公爵令嬢を、軍人にだと」
低い声だった。咎めるというより、確かめるような響きがある。
「戦場が何か分かってて言ってるのか。剣を握る度胸があるのと、実際に人を殺せるかは別だ。何かあったらどう責任を取る」
シンクレアの傍らに立つオーレリアンは、その視線を真っ向から受け止めた。
「俺が守る」
即答だった。迷いのかけらもない声に、ガイアスは片眉を上げる。だが、オーレリアンの言葉はそれだけで終わらなかった。
「それに、クレアは自分の身くらい自分で守れる」
その一言に、シンクレアは一歩前へ進み出た。
これまで黙って成り行きを見守っていた彼女の瞳には、静かな決意が宿っている。膝の上で握っていた拳を解き、まっすぐガイアスと向き合った。
「私は元々、王都の騎士団に所属していた」
淡々とした口調だった。恥じらいも気負いもない、ただ事実を伝えるための声。
「危険なことは承知の上だ。守られるだけの立場に甘んじるつもりはない」
その言葉に、ガイアスはしばらく無言のまま、シンクレアの表情を見つめていた。噂には聞いていた。婚約破棄の場で涙一つ見せず、毅然と去っていった公爵令嬢の話。剣の腕も一流だという話も、社交界の余談として耳にしたことがある。
だが、伝聞と実物とでは、信じられる重みが違う。
ガイアスは椅子から立ち上がると、壁に立てかけてあった木剣を手に取った。使い込まれた柄には、幾多の手合わせを重ねてきた者だけが持つ、独特の艶がある。それをシンクレアへ向かって放り投げた。
「言葉より、剣を見せろ」
宙を舞う木剣を、シンクレアは片手で難なく受け止める。その動作だけで、ガイアスの目つきが僅かに変わった。
「異論はない」
短く答えると、シンクレアは木剣を軽く一振りし、手に馴染ませるように重心を確かめる。オーレリアンは口を挟まず、少し離れた場所へ下がった。ここから先は、言葉で語ることではないと分かっているからだった。
練兵場の中央に、即席の稽古の場が用意される。噂を聞きつけた兵士たちが、遠巻きに人垣を作り始めていた。辺境伯家の四男が連れてきた公爵令嬢が、隊長であるガイアスと手合わせをする。その話題性に、誰もが興味を隠しきれない様子だった。
対峙する二人の間に、張り詰めた静寂が広がる。
土埃を含んだ風が吹き抜け、シンクレアの銀髪を揺らした。木剣を構える手には迷いがなく、腰を落とした姿勢は、幾年もの鍛錬に裏打ちされた確かなものである。ガイアスもまた、木剣を片手にゆっくりと間合いを詰めていく。その目つきには、もはや値踏みの色はなかった。ただ、純粋に一人の剣士として、目の前の相手を見定めている。
先に動いたのはガイアスだった。
踏み込みと同時に振り下ろされた一撃は、速く重い。シンクレアはそれを紙一重で躱すと、流れるような動作で懐へ潜り込んだ。木剣の先端が脇腹を掠める寸前、ガイアスが素早く身体を捻ってそれを弾く。乾いた木の音が練兵場へ響き渡った。
そこから先は、目にも留まらぬ応酬が続いた。
打ち込み、躱し、また打ち込む。シンクレアの動きには無駄がなく、体格の差を補うだけの技術が随所に光っている。反面、ガイアスの一撃はどれも重く、受け止めるたびにシンクレアの腕へ確かな衝撃が走った。
何合と剣を交えるうちに、シンクレアの額へ汗が滲み始める。それでも足を止めることはなかった。押されながらも一歩も退かず、隙を見ては鋭い反撃を繰り出す。その姿に、遠巻きに見ていた兵士たちの間からどよめきが起こった。
勝負を決めたのは、僅かな体力差だった。
ガイアスの一撃をどうにか受け止めたシンクレアだったが、その衝撃で体勢を崩す。次の瞬間には、木剣の切っ先が喉元寸前で止められていた。
「そこまでだ」
短い宣告とともに、ガイアスは木剣を引く。荒い呼吸を整えながら、シンクレアはゆっくりと構えを解いた。
「……負けたか」
悔しさを滲ませた呟きだった。それでも、その表情に卑屈さはない。
ガイアスは木剣を肩に担ぎ、シンクレアの顔をまじまじと見つめた。額に浮かんだ汗、乱れた呼吸、それでも真っ直ぐこちらを見返してくる瞳。負けを認めながらも、目の光は少しも曇っていない。
「女にしちゃ、悪くない」
ぶっきらぼうな評価だった。だが、それは紛れもない賛辞でもある。
「一歩も引かなかったな。並の兵士なら、途中で足が止まる」
木剣を近くの兵士へ手渡しながら、ガイアスは小さく息をついた。腕を組み、しばらく思案するように黙り込む。練兵場を囲む人垣も、固唾を呑んでその答えを待っていた。
「入隊を許可する」
告げられた一言に、シンクレアの表情が僅かに緩んだ。
「ただし、特別扱いはしない。公爵令嬢だろうと、義妹だろうと、隊の中では一人の兵士だ。それでいいな」
「望むところだ」
迷いのない返答に、ガイアスは口の端を僅かに持ち上げた。それは、家で見せる砕けた笑みとは違う、軍人として認めた者へ向ける表情だった。
離れた場所で成り行きを見守っていたオーレリアンが、ようやく歩み寄ってくる。その顔には、隠しきれない安堵と誇らしさが浮かんでいた。
「言った通りだろ」
得意げな声に、ガイアスは呆れたように鼻を鳴らす。
「お前は黙ってろ」
その軽口に、練兵場を包んでいた緊張が緩み、あちこちから小さな笑い声が漏れ始めた。汗に濡れた髪をかき上げながら、シンクレアは静かに息を吐く。
胸の奥には、これまでとは違う種類の熱が残っていた。守られるだけの存在ではなく、自らの力で認められたという確かな実感。その熱は、剣を握るたびに感じてきたものと同じでありながら、どこか温かさを伴っている。
隣に立つオーレリアンの視線に気づき、シンクレアはゆっくりと顔を上げた。彼の金色の瞳には、誇らしさと共に、深い信頼が宿っている。言葉を交わさずとも、その眼差しだけで十分だった。
朝の光が練兵場を照らし、土埃の匂いに混じって、乾いた汗の匂いが漂っている。それはこれから彼女が歩んでいく、新しい戦場の匂いでもあった。




